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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    三 在郷町の発達
      松岡・吉江
 吉田郡松岡は、正保二年(一六四五)勝山街道沿いの芝原郷上村(芝原江上村)を三つに分けた窪・室・椚の三か村の地に、松平昌勝五万石の城下町として建設された町である。窪・椚・毘沙門・台・本・極印・室・観音の松岡八町があった。元禄十年には総間口二〇五〇間余、家数三五七軒を数えた。しかし、享保六年松岡藩は廃藩となり、それ以降在郷町として変貌していった。城下町時代に作られた松岡八町はおおむね近世末まで存続したが、福井藩は松岡町の衰退をふせぐため、松岡特産の鋳物業や酒造業などの保護に努めるかたわら藩札両替の札場や火薬塩硝類の製造所を設けるなどの振興策をとった。

表82 松岡の役

表82 松岡の役

 天保九年には、松岡八町は観音・極印・本・台・毘沙門の五町と室・椚・窪の三村から成り、町には庄屋と十人頭、村には庄屋と長百姓が置かれていた。駅場のうち上駅は椚村にあって馬八匹、下駅は室村にあって馬一二匹を置いていた。木戸内は一七丁一〇間、家数は三五五軒で町家が二九八軒、百姓家が五七軒、人数は一五一一人であった。商工業の役を納める者は一〇職種あり(表82)、この他に酒造人が一一人いた。これらが松岡の産業の中心的な存在となっていたのである(吉野屋文書)。
 丹生郡吉江は、福井藩主松平光通の弟昌親が正保二年に二万五〇〇〇石分知されて成立した吉江藩の城下町であった。昌親は、慶安元年(一六四八)に吉江に居館を構えることを許されたので、日野川右岸の丹生郡牛屋・杉本・西番・米岡の四か村の畑地を召し上げ、吉江館(陣屋)と侍屋敷・町屋敷を設けた。同藩は、延宝二年(一六七四)に昌親が福井藩主に就任したため廃藩となる。しかし、藩政時代に組織された新町・西町・牛屋町・本町・東町・柳町の六つの町人町(吉江町)はそのまま残され在郷町となり、その後も福井藩から諸役を免除されるなどの保護をうけた。天明七年(一七八七)には、六か町にはそれぞれ庄屋が置かれ、家数は九二軒、うち高持七軒、無高八二軒、医家二軒などで、人数は三七一人であった(小山主税家文書)。嘉永四年(一八五一)の六か町の家数は、新町一一、西町一四、牛屋町二九、本町一七、東町一〇、柳町一九で合わせて一〇〇軒であった(同前)。医家を除く各家の職業は不明であるがおそらく農業以外の商工業に従事していた者も多かったと思われる。年代は不明であるが、吉江町で紺屋職をしていた三郎右衛門が、隣村の足羽郡浅水村でも紺屋職を営みたいと願い出ていることなどは、吉江町の商工業活動の一端をうかがうことができる(藤井権左衛門家文書)。



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