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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    三 在郷町の発達
      佐柿・本郷・高浜
 佐柿・本郷・高浜の三つの若狭の在郷町は、戦国期には城下町としての機能を有していたが、近世になり寛文九年に遠敷郡熊川とともに「泊り村」に指定され、宿場町としての機能ももつようになった。
写真56 佐柿町(「佐柿絵図」)

写真56 佐柿町(「佐柿絵図」)

 三方郡佐柿は御岳山の北西麓にあり、東の椿峠を経て越前に通ずる交通上の要地であった。天正(一五七三〜九二)期佐柿国吉城の城主木村常陸介が豊臣秀吉の命により佐柿に町家を造ったと伝えられ(「若狭郡県志」)、慶長五年若狭入封の京極高次は、佐柿に重臣を配して越前との国境を固め、寛永十一年(一六三四)入封の酒井忠勝は佐柿に茶屋(陣屋)を設けて奉行を置いた。
 元禄年間には、野瀬町・南町・竪町・横町・中ノ町・北町があり、小規模ながら町場が成立していた(「若狭郡県志」)。宝暦四年(一七五四)には家数一一六軒(「若狭一国亀鑑」館太正家文書)、十九世紀初頭の「佐柿村絵図」(須田悦生家文書)には街道に面した表家が一〇〇軒、裏家が二一軒、合計一二一軒の家があった。明和四年(一七六七)頃、寺社は山王・愛宕の二社と徳賞寺・福寿院など九か寺と比較的多く存在し、この地域の中心的な村であったことを物語っている(『稚狭考』)。
 大飯郡本郷は佐分利川口左岸に位置し丹後街道に沿った地域で、上下村・市場村・下薗村一帯を指した。この三か村は商工業者をまじえた在郷町としての様相を呈していた。中世にこの地域を支配した本郷氏の館は高田城と呼ばれ上下村字浄光寺にあり、天文(一五三二〜五五)年間に北の達城に移ったといわれるが、このあたりが本郷村の中心地域と考えられる。
 本郷村は高浜から小浜への荷物運送の継場でもあり、町場には宿屋・茶屋などの店も開かれ宿駅的な機能を有していた。また佐分利川流域の村々の物資の集散地で、市場村の東市場・西市場はその交易の中心地であった。宝暦年間から野尻銅山の荒銅の積出港としても繁栄した。家数は、享保二年には上下村七五軒・市場村五三軒・下薗村一三軒、合計一四一軒であり(荒木新輔家文書)、宝暦四年にはそれぞれ七一軒・六一軒・一四軒、合計一四六軒になり(館太正家文書)、天保九年には七六軒・六八軒・一六軒、合計一六〇軒に増加している(渡辺源右衛門家文書)。
 大飯郡高浜は高浜湾に面し丹後街道に沿う村で、永禄八年(一五六五)頃に築かれたとされる高浜城の城下町であったが、寛永十一年酒井家の若狭入封によって城は廃され町奉行が置かれた。元禄年間には石塚町・横町・赤尾町・本町・中町・大西町・今在家町・岸名町などの町があり、家数五〇〇余戸、農漁工商が雑居しており在郷町の様相を示していた(「若狭郡県志」)。
 延享三年(一七四六)の家数は、浦方一七五軒を含めて六〇三軒で、ほかに一六の寺庵があり、人数は二五六七人で、男一二九五人・女一二四八人・出家二四人であった(市瀬吉坂家文書)。宝暦四年には家数が六四四軒に増加している。文化四年には、横町・赤尾町・本町・中町・大西町・岸名町・今在家町・北町・舞々・笠屋・南町などの町名があり、家数六七二軒、人数二七三八人、寺一六か寺、社四か所があった(「雲浜鑑」)。



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