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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    三 在郷町の発達
      金津・東郷・今庄
 坂井郡金津は「正保郷帳」の北金津町・南金津村・金津新町の三か町村からなる北陸道の宿駅であり、また近世を通じて福井藩の金津奉行所が置かれていた。すでに慶長十年(一六〇五)頃の「越前国絵図」(松平文庫)に、「北金津町」とあり近世初頭から町場であったことがわかる。安永二年(一七七三)には、北金津町は家数四一一軒、十日町・八日町・坂下町・水口町から構成され、旅篭屋・揚屋・鍛冶屋・大工・油屋・桶屋・木挽・紺屋・豆腐屋・室屋などがあった。南金津村は、家数一四〇軒、六日町・古町の二町からなり、油屋・桶屋・紺屋・室屋・豆腐屋などがあった。また、金津新町は、家数八八軒、毛抜屋九軒のほか紺屋・油屋・桶屋などがあった(「福井藩下領村鏡」高橋好視家文書)。
 寛政元年には、三金津合わせて家数六一五軒、人数二一四四人、町筋の距離は一一町(約一二〇〇メートル)、問屋・本陣・旅篭屋など宿場関係の職種のほかに、毛抜屋・鍛冶屋・紺屋・造酒屋・豆腐屋・桶屋などがあり、町の中心地に中世からあった市姫社を核として町衆の活動が続いた(「三金津等明細帳」吉川充雄家文書)。『越前国名蹟考』には、南金津も南金津町と記され三町合わせて在郷町として存在していたのである。
 足羽郡東郷は、南条郡鯖波で北陸道と分かれ粟田部を経て一乗谷に通じる朝倉街道と、福井から美濃に通ずる美濃街道の交わる交通の要衝であり、朝倉時代から繁栄していた。また一時期は槙山城の城下町でもあった。しかし、結城秀康の越前入国以後はその重要性を減じ、在郷町または宿場町として存続してきた。実際、慶長十年頃の「越前国絵図」には「東郷町」と記されているが、その後の国絵図・郷帳には「東郷村」としか記されていない。近世においては、福井城下橋南の春日口からの道と北陸道の浅水宿からの道が東郷町で交わり、東して前波の渡しで足羽川を渡り美濃街道に合流する東郷道が整備され、東郷の東側の安原村・小路村、西側の福田村まで町並が続き、東郷道唯一の町場として産業・交通の要地であった。通りの北側には照恩寺・稲荷大明神・地蔵院・専徳寺・酒解神社、南側には霊泉寺・永昌寺が、また宿場問屋や商家が軒を並べ、制札場などもあった。この町に集散された主な産物は、菜種・油木実・苧外字であった。寛延二年(一七四九)には、大野郡から福井へ積み出す漆実荷物の紛争を東郷の田島屋佐次兵衛が仲裁しているように(松嶋一夫家文書 資3)、東郷には力をもった商人がいた。
 南条郡今庄は日野川上流域藤倉山東麓に位置し、中世から北陸道の重要な宿場町であると同時に、在郷町として周辺地域の物資集散の中心地としての機能を果たしていた。すなわち八飯・宇津尾などの日野川上流地域や田倉谷地域の山地の物資と、西部の山地の大桐・山中を通じて沿岸部の物資との交流の場所であった。
 文化(一八〇四〜一八)年間には、街道に沿って北から上町・観音町・中町・古町・馬場(後の新町)の五町があり(『越前国名蹟考』)、各町には町代がいて物成の徴収などもしていた(「上町町代享保五年子年御物成納帳」京藤長右衛門家文書)。
 天保十一年には家数二七五軒(高持一四四軒、雑家一二六軒、孀五軒)を数えた(「子年高目録元帳写」京藤長右衛門家文書)。同七年の小物成銀には、室役・箕役・豆腐役・酒造冥加・紺屋役などがあり、商人や職人が多く住んでいたことがうかがわれる(後藤市兵衛家文書)。さらに、島崎家を棟梁とした今庄郷大工の組織を初めとして、豆腐座・油座・酒座の集団があった。



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