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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    三 在郷町の発達
      粟田部
写真55 栗栗田部之図

写真55   栗田部之図数

 今立郡粟田部は三里山の東南麓、鞍谷川中流にあり、近辺の村々や月尾谷・水間谷・服部谷・河和田谷などの物資の集散地であった。また、東南部の池田郷の板垣、市、志津原の各村を経て冠山峠を越え美濃徳山村に通じていたので、やがて交易地域が広まり美濃の各地に物資を運ぶルートの拠点にもなった。同国に運ばれる物資は、塩・塩干魚・海産物・日用雑貨などであり、美濃からは炭・繭・生糸などがもたらされた。
 寛文元年(一六六一)福井藩が初めて藩札を発行した時、札所は福井城下に設けられたが、領内の三国・金津・府中とともに粟田部にも置かれたことは、藩がこの地を重要視していたことを示している。元禄十三年(一七〇〇)の家数は一九一軒であるが、このうち入作や寺などを除く一五四軒のなかで、商工業に従事したと思われ屋号を持つ四七軒を表81に示した(旧粟田部町役場文書)。享保(一七一六〜三六)年間には毎月六回(二の日・七の日)市が開かれていた(『越前国名蹟考』)。

表81 栗田部の屋号からみた商工業者

表81 栗田部の屋号からみた商工業者
 元文五年(一七四〇)の粟田部村は上組(東組)と下組(西組)に分かれ、それぞれに庄屋が置かれ、戸数は三三三戸であった(『男大迹部志』)。寛政(一七八九〜一八〇一)・享和(一八〇一〜〇四)の頃、粟田部には繭問屋が少なくとも六軒あり、周辺の村々を初め池田や美濃の徳山地方から繭を買い集め、粟田部の繰屋と呼ばれた糸とり業者に渡して製糸させている。繰屋は享和元年には四五軒あった。幕末には地元の坪田孫助がここで作られた越前手挽式生糸二〇〇梱を横浜に運び外国貿易を始めている(『今立町誌』本編)。
 『越前国名蹟考』によれば、粟田部には船橋・本・中佐山・下佐山・馬場・天神・大門・上谷・上谷六軒・下谷・鍛冶屋村・鍛冶屋村大の一二町があり、家数合わせて三四三軒、安政六年(一八五九)には町数二二町、家数は五三七軒に増加した。天保九年(一八三八)の粟田部村の小物成は、豆腐役銀一二九匁、肴役銀八六匁、室役銀三〇匁、紺屋役銀二六匁、漆役銀一〇匁五分であり、商工業者が多く納めており、在郷町の性格を表しているといえよう(「御廻国様御泊り脇亭主覚記」津田道弘家文書)。
 麻は今立郡で多く作られ、粟田部はその集散地であった。江戸中期以降今立郡内で生産された麻糸は近江長浜方面に運ばれ、近江蚊帳の原料になった。外字(綛)屋は蚊帳の原料である麻かせを取り扱った商人で、粟田部には、かせ久・かせ源・かせ三・かせ六など「かせ」の屋号をもった商家が多かった(『今立町誌』本編)。粟田部に生まれた重野六十九は同志と図り、近江から蚊帳地織の技術をひそかに取り入れ、安政三年粟田部に伝習所を設け蚊帳製造を始め、以後年々産額は増加した(『今立郡誌』)。慶応元年(一八六五)福井藩は粟田部村本町に「制産役所」を置き商工業者に生業資金の貸付けをして、地域産業の発展に寄与した(『今立町誌』本編)。



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