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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      大野町の人口移動
 先に述べた「大野町年寄用留」の多くには、大野町と他町村との間の人の出入に関する記録がある。ただ、隔月の史料しか得られない年や、落丁のある史料もあるので、記された記録の多い次の二八か年について整理してみた。対象年は、元文五年、寛保元年、明和二年・六年・安永三年・五年・六年・八年・九年、享和三年(一八〇三)、文化元年・十二年、文政元年・十二年、天保元年・二年・五年・七年から九年、弘化四年、嘉永五年(一八五二)・六年、安政二年、万延元年、文久元年、元治元年(一八六四)、慶応三年(一八六七)である。月ごとの対象年数は、閏月を除き最少が正月・七月の二三か年で、最多が二月の二七か年であるので、比較するに当たってはそれほど問題ないと判断される。また、枝村の野口・篠座・清滝・西方寺・金塚の五か村と新田および寺社門前については、年により扱いが変わるので、一括して大野町として扱った。
 まず、引越しには、家族全部の場合と一部の場合とがあるが、人数を把握できない史料もあるので件数で示す。大野町から他町村への転出は九二か村一七六件であるが、逆に大野町への転入は一三三か村二八四件と件数で一・六倍にもなる。大野郡内の村々との出入が多く、転出で七四か町村一四三件、転入で一一四か町村二五六件を数える。郡内で件数の多い町村は、転出が中野九件、勝山八件、中荒井七件、下舌・西山五件などで、転入が勝山一〇件、中野九件、下麻生島・平泉寺・木本地頭六件、下荒井・高島・深井・川上・友江五件などである。隣接する中野村と町場である勝山町との関係が強い。大野郡に次いでは足羽郡が転出一七件、転入七件で多いが、とりわけ福井町との出入が多く、転出が一四件、転入が七件であった。また、転出・転入ともに四件と数は少ないが、東に国境を越えた美濃との間にも引越しによる人口移動があった。図9には転出・転入合計件数が六以上の町村を示した。
図9 大野町との引越しが6件以上の町村

図9 大野町との引越しが6件以上の町村

 次に、婚姻や養子縁組における人口の移動がある。これら縁組の場合、多くは一人が移動するだけであるが、中には子連れでの縁組もあるので、引越し同様件数で示した。ただし、不縁で親元に戻った者については、二重に計算される場合があるので省いてある。その結果、縁組によって大野町から出て行った縁組先は八六か村一八一件であるが、大野町へ来た者の出身地は一七〇か村七二七件であり、引越しの場合よりさらに顕著に大野町の中心性が現れている。縁組も大野郡内の町村との関係が強く、縁組先で七三か村一四一件、出身地で一五一か村六八一件を占める。縁組先で件数の多い町村は、勝山二〇件、中野七件、下舌・木本地頭六人、稲郷・猪島五人などであり、出身地で件数の多いのは、中野四三件、勝山二三件、稲郷一八件、菖蒲池一七件、木本地頭一六件などである。また、引越しと同様に福井町との関係も強く、縁組先・出身地ともに二四件を数える。隣接する今立郡とくに池田から入ってくる者も他郡に比べると多かった。縁組先・出身地の合計件数が一〇以上のものを図示したのが図10である。 

(準備中)

図10 大野町との縁組が10件以上の町村




表80 大野町からの奉公人数

表80 大野町からの奉公人数

人口の移動は、引越しや縁組によるものだけでなく、一年間あるいは数年間にわたって他町村の商家へ年季奉公や稼奉公に行ったり、藩や侍屋敷へ奉公に行く者もある。これは表80のように、二八か年で二四三人を数えるが、時期により行き先や奉公先が変化している。もちろん大野町民が町内の商家などで奉公する場合も多かったと思われるが、この場合は願書を提出する必要がなかったので、用留には記されておらず、したがって表にも現れない。まず、奉公先からみていくと、藩・侍屋敷へ行った者が四五人、町人のところへ行った者が一九一人であるが、時期的にみると元文五年から明和六年に藩や侍屋敷での奉公が多く、福井や勝山へ行く者も比較的多かった。ところがその後は、藩・侍屋敷での奉公自体が減少し、とくに越前国内での奉公が少なくなっている。このことは、財政難のために藩や侍に奉公人を雇う力がなくなってきたことを示しているのかもしれない。
 越前国内での奉公が少なくなることは、町人への奉公でも同様で、最初は福井での奉公人が過半数を占めていたのに対して、安永年間には大坂へ行く者が増え、享和以降になると、江戸へ行く者が多くなってくる。とくに弘化以降になると、藩や侍屋敷への奉公も江戸だけになり、この時期の奉公人数三九人のうち三五人が江戸へ行くようになった。
 引越しや縁組・奉公による移動は行き先がはっきりしているが、中には行き先が不明なもの、つまり、生活に困ったり事情があって、家出をしたり出奔したりする者(家族)もある。これは、二八か年で一三〇件、年平均四・六件を数えるが、年によりかなり変動がある。ちなみに一年に一〇件を超えるのは、天保飢饉の天保七年一〇件、同八年一六件と、幕末の万延元年一一件、慶応三年一五件の四か年だけである。この四か年の家出人数を合計すると五二人となり全体の四割に達する。とくに万延元年は六か月分だけの数字であるので、残る七か月分の史料があればさらに多くなるものと予想される。
 以上の人口移動を発生した月別に算出すると、次のような特色がある。引越しは二月から四月に全体の八割が集中し、とくに三月は三七・四パーセントを占め、正月・七月・八月には極端に少なくなる。縁組も二月から四月に八割強が集中するが、三月・四月は三一パーセントを超えている。五月の五・九パーセントを除くと、残りの月は三パーセント以下で少ない。奉公も二月から五月にかけてが多く、この四か月で五六・四パーセントを占め、これを除く月にはほぼ平均的に発生している。一方、家出は三月から五月に多く発生しているが、三か月間の合計は年間の五割程度であり、残りは年間を通じて発生している。このように、二月から五月にかけて、とくに三月・四月が、近世後期の大野町における人口移動の多い季節であったことがわかる。おそらく、この時期は農閑期であり、結婚式をしたり引越ししたりするのにあまり支障がなかったのではないかと思われる。



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