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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      町人と家族
 宗門人別帳からは家族形態や平均年齢を知ることができる。ここでは、府中町と勝山三町のうち袋田町と後町についてみてみる。府中町については、文化十二年の「一向宗切支丹宗門御改帳」(武生市立図書館文書)に、全町の約四分の一に当たると思われる本町以南の一五町・三門前の一向宗(浄土真宗)門徒五二〇家族一八四二人が記されており、このうち一八二四人については年齢もわかる。表77には、家族人数でまとめたものを示した。四人、三人、二人の家族が多く、平均は三・五四人になる。これを町別にみると、本町三・七一人、京町三・五五人、柳町四・四二人と中心に近い町は平均を超えている。中心から離れた町は、東旗町が四・二〇人で平均以上であるが、西旗町は二・九四人、田方は二・七九人であり、家族人数が少ない町が多い。

表77 府中町の家族人数別の家数

表77 府中町の家族人数別の家数


図8 府中町の年齢別人口

図8 府中町の年齢別人口

 一方、年齢別人口を図8に示したが、最高齢が八六歳の女であるのを初めとして女の高齢者が多いことがわかる。平均年齢も女が三二・〇歳であり、男の三〇・一歳を一・九歳上回っている。全体の平均は三一・一歳であった。また、年齡別には五歳から九歳の人口をピークにして、その上の年齢の人口は次第に減少しているが、三〇歳から三四歳の人口が男女とも比較的少ない。この年齢の出生年はちょうど天明の飢饉の時に当たるので、出生数が少なかったか、出生後死亡した者が多かったものと思われる。
 勝山三町のうち袋田町については、享保十一年の「勝山袋田町宗門人別御改帳」(勝山市教育委員会保管文書)と天保八年の「越前国大野郡勝山袋田町宗門御改帳」(同前)が伝存しており、後町については天保八年の「越前国大野郡勝山後町宗門御改帳」(松屋文書)が伝存している。天保八年は飢饉の年であるが、両史料ともに三月のものであるので、人口が激減する前の状況を示していると思われる(第四章第一節)。これらから町別・持高の有無別に人口をまとめたものが表78である。

表78 勝山袋田町・後町の人口

表78 勝山袋田町・後町の人口

 袋田町は享保十一年から天保八年までの間に家数が一・三三倍に増加しているが、高持層は一・五倍、無高層は一・三九倍の増加であるのに対して、小高持層は一三軒減少しているのが注目される。また、人口の増加率は家数の増加率より高く一・四〇倍になっている。男女を比較すると、男が一・三三倍であるのに対し、女は一・四六倍と高くなっている。とくに無高層は女が一・七四倍、男でも一・五〇倍に増加している。
 また、家族平均人数は、高持層が六・五六人から五・一〇人に減少しているのに対して、無高層は二・九六人から三・四四人に増加しており、全体の家族平均人数も三・五八人から三・七〇人に増加している。高持層の家族平均人数の減少は、一〇人以上の大人数の家族の減少による。すなわち、享保期には高持層四八軒のうち一〇人以上の家族が八軒もあり、中には二〇人、一五人といった家族もあったのに対して、天保期には高持層全体では七二軒に増加したにもかかわらず、一〇人以上の家族は一〇人家族一軒だけになっているのである。全体の家族人数をみると、享保期の三五二軒のうち、最も多かったのは三人家族で七三軒、次いで二人・四人の六四軒、単身六三軒であった。天保期の四七一軒についてみると、最も多かったのは同じく三人家族で一〇六軒、次いで二人八八軒、四人六八軒、五人六三軒となり、単身は五一軒で割合が減少している。
 次に、天保八年の袋田町と後町とを比較すると、裏町的である後町の高持層の割合が八・九パーセントで、袋田町の一五・三パーセントよりかなり低い。家族平均人数は、後町のほうが袋田町よりどの階層も多く、全体では〇・一四人多い三・八四人となっている。後町の家族人数については、高持層一九軒で多いのが三人家族五軒、五人家族四軒であり、無高層一九〇軒で多いのは三人家族四二軒、二人・四人家族二九軒、単身・五人家族二八軒であった。
 このような家族人数の違いの原因を家族構成から考察してみよう。表79は、三つの宗門人別帳のうちいずれかで七軒以上みられる家族構成を示したものである。一緒に住んでいる者を類型化して示したので、親・子・孫・兄弟(姉妹も含む)・下人は一人とは限らない。三つの史料ともに最も多いのは戸主夫婦と子のパターンで、享保期の袋田町では二七・八パーセント、天保期になると、袋田町では三四・〇パーセント、後町では三〇・四パーセントを占めている。このパターンの家族平均人数は三・九一人から四・三九人の間であった。享保十一年の袋田町で多かったのは、女の一人暮らし三五軒、戸主夫婦だけの三二軒、男の一人暮らし二八軒など、単身・二人の家族であった。これらの多くは無高層に属していたので、享保期の無高層の家族平均人数は二・九六人と少なかったのである。これが、天保八年になると、戸主女(母親)と子供(家族平均人数二・八〇人)が六五軒、戸主夫婦と親と子(同五・三五人)が四〇軒と多くなり、次いで女の一人暮らし三八軒、戸主夫婦の三六軒と続き、男の一人暮らしは少なくなった。同年の後町でも同様に戸主女・子(同二・七〇人)が二七軒、戸主夫婦・親・子(同五・五〇人)が二六軒と多く、女の一人暮らしも二〇軒を数える。

表79 勝山袋田町・後町の家族構成

表79 勝山袋田町・後町の家族構成

 家族構成で、袋田町の享保十一年と天保八年を比較して注目されるのは、下人や手代を含む家族が後者に少なくなることである。表79の中にも下人を含むパターンが一つだけ現れるが、一七軒から三軒に激減している。下人や手代を含む家は、享保十一年にはこの一七軒を含めて全部で五二軒あり、そのうち九軒は家族人数一〇人以上であった。中でも家族人数二〇人の家では一五人、一五人の家では七人、一三人の家では六人の下人・手代を抱えていた。この他にも下人・手代を五人以上抱えていた家は五軒もあった。したがって、この五二軒から下人・手代を除くと家族人数は多くても八人となり、他の家族とそれほど変わらない構成になる。これが、天保八年になると、下人・手代を抱える家は全部で五軒に減少し、抱えている下人・手代の数も二人が二軒、一人が三軒に過ぎなくなる。後町については天保八年しかわからないが、下人・手代を抱える家は二軒しかなく、抱える人数もそれぞれ二人、一人である。これら下人・手代を抱える家は高持層であり、下人・手代の減少が先の袋田町の家族平均人数の減少の原因である。
 勝山町の人口を年齢別にみると、袋田町は享保十一年には二五歳から三四歳の人口が多かったのに対して、天保八年には五歳から一九歳の人口が多くなっている。同年の後町も同じような傾向である。また、天保八年の五〇歳から五四歳の人口が、とくに後町で落ち込んでいるのは、天明の飢饉の影響であると思われる。なお、平均年齢は享保期には男が三二・四歳、女が三二・九歳と男女とも三二歳を超えていたが、天保期になると、女は袋田町が三一・五歳、後町が三二・七歳とそれほど変わらないが、男は袋田町が二八・六歳、後町が二八・八歳と二八歳台になったために、平均年齢も三〇歳台に低下している。



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