目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      町役人の選挙
 町役人は鍛冶町を除き、原則として藩が人選して任命するものであった。このことは、安永八年十二月の三番町庄屋の交代の例をみてもわかる。三番町「本家・地名子・扮家不残」の名で町奉行に宛てて、病死した三番町庄屋の跡役をその倅にはさせないようにしてほしいという願書が五日に出された。これに対して町年寄は、庄屋役は「御上」より「仰付」けられるものであるのに、願書を出すとは何ということかと思いながらも、六日に町奉行に提出した。町奉行は、この願書提出の首謀者は誰かを吟味させた。三番町の者は次第に事が重大になっていくので、七日夕方に願書を取り下げると申し出たが、取り下げるためには署名押印した書面を提出せよといわれ、九日に誰が庄屋になっても申し分ない旨を認めた覚書を提出した。結局十一日に病死した庄屋の倅が庄屋に任命され、本来ならば三番町の組頭や首謀者は咎を仰せ付けられるところであるが、町年寄のとりなしで何事もなくこの一件は終わっている。
写真54 庄屋入札結果

写真54 庄屋入札結果

 ところが、幕末の万延元年八月の例をみると、町民に入札(選挙)を行わせた上で庄屋跡役が決められている。同月十一日に咎により退役させられた比丘尼町庄屋と二十日に病死した五番町庄屋の跡役を決めるために、二十一日に両町に入札が命じられた。二十四日には五番町組頭から他行や留守で入札しない者四人の届出があり、その日のうちに両町とも開札が行われた。比丘尼町は入札総数一〇二のうち与三郎が八六と圧倒的に多く、残る六人は五以下であり、五番町は入札総数一二六のうち又兵衛が三八、徳右衛門・次右衛門が一二、残る八人は五以下であったが、この他に白紙委任とみられる「御目鑑通」が四八あった。この結果を受けて、二十六日に新しい庄屋が任命された。比丘尼町庄屋は入札結果のとおり与三郎が任命されたが、五番町庄屋は三八を獲得した又兵衛ではなく、次点の二人のうち次右衛門が任命されている。したがって、入札といえども完全に町民の意志が反映されたわけではなかった。
 なお、この入札で注目されるのは、本家・地名子のみならず、借家人も参加できたことである。入札に参加できた人数は五番町では一三〇人であった。この数は同年に蝦夷地「開拓」が幕府から許可された祝の酒代が藩から町人に十月二十一日に与えられているが、この対象となった家数一二五軒(庄屋・御免地御用達町人を除く)に近い。しかし、「惣人別寄帳」(斎藤寿々子家文書)による五番町の家数は、安政四年に本家六九軒・地名子二軒の計七一軒、文久元年に本家六九軒・地名子三軒の計七二軒である。したがって、五番町には六〇軒足らずの借家人がおり、入札にも参加し、酒代下賜の対象にもなったことがわかる。ちなみに、比丘尼町の酒代下賜の対象となった家数は一九三軒であり、安政四年・文久元年の家数はともに本家七三軒・医師一軒の計七四軒であった。入札に参加しなかった人数は不明であるが、入札数一〇二は両年の家数よりも多く、借家人が入札に参加していることがわかる。
 また、万延元年九月には、五人組頭も入札で決められている。五人組を組み替えるに当たって、組頭を決めるため各町の者が残らず入札するよう六日に申し渡され、七日に開札が行われた。これで決定された一三五人の五人組頭には、十一日に自分の組に入れたい者を記した書付を差し出すよう申し渡された。そして、十七日には組替えした五人組帳の下書が出来上がり、町奉行から許可を得て印形を取り、二十六日に正式に差し出している。また、十七日には五人組に入れたくない者の名前一六人分の書付も町奉行に見せている。
 さらに、今までは町とは別に扱われていた寺社門前が、万延元年十月から「人別始諸事町内同様」になり、翌文久元年十月一日に各門前から組頭にしたい者の名前が提出されている。おそらくこれも入札によったものと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ