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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      諸職業と仲間
 城下町の諸職業のありようを、「町年寄用留」(斎藤寿々子家文書、布川源兵衛家文書、安達博通家文書)が多く現存している大野町を中心にみてみよう。
 城下町の商工業者は同業者ごとに組合・仲間を結成し、中には特定の地区に集住して同業者町を構成していることがあった。代表的なものが大野の鍛冶町・大工町である。大野の鍛冶仲間は、金森長近が大野城を建設する時に必要な鉄製の資材を供給したことにより、領内大野郡の中での鍛冶職の独占権を取得し、四番町通りの中央の鍛冶町に集住し足役(夫役)も免除されていた。そのため、鍛冶職を新規に始めることや、鎌・鋤・鍬・釘などを店で売ることはもちろん振売することも仲間以外には許されていなかった。また、この仲間株を売買することや他町の者に譲渡することは禁止されており、後継者がなく断絶した鍛冶屋株は仲間で預かり、しかるべき人物に継がせることになっていた。鍛冶職の人数は延宝元年(一六七三)には一八人、享保四年二一人、寛政十年(一七九八)二〇人、文政元年(一八一八)二〇人、同四年一九人、同十二年一九人であり、鍛冶町の戸数は寛保三年(一七四三)に本家二一軒、文化六年(一八〇九)に二〇軒(本家一八・借家二)であったので、同町居住の本家はほとんどが鍛冶職を営んでいたようである。なお、同町には他町と同様に町庄屋が置かれていたが、他の町庄屋とは異なり御目見は許されていなかった。また、庄屋は鍛冶屋仲間の代表でもあったようで、諸願書類には四、五人の惣代と並んで署名している。組頭は同町には置かれていなかったようで、元文五年(一七四〇)の庄屋交代の時には鍛冶町居住の本家一七人が互選して跡役を決めている。
 大工職は、大野町には天保元年(一八三〇)に約九〇人、明治元年には一〇〇人いたことが知られる。三番町通りの南部が大工町であり、その家数は寛保三年に本家一二軒、文化六年に一八軒(本家一二・借家六)しかなく、同町の周辺にも多くの大工が居住していた。大工町庄屋は御作事庄屋を兼ねており、大工仲間の代表としての機能も持っていた。この町にも組頭は置かれていなかったようで、会所に御用がある場合に庄屋が留守の時は大工年番が呼び出されている。また、弘化元年(一八四四)八月に庄屋が退役した後は、大工町庄屋は置かれず三番町庄屋が大工町をも管轄することになり、支配の上では大工町は消滅した。しかし、大工仲間の代表としての大工庄屋は幕末まで置かれていた。
 以上の二つのほかに、国産奨励の触が出る天保元年以前に商売仲間の存在が確認できるのは、酒屋・麹屋・質屋・紺屋・豆腐屋・塩屋・肴屋・牙人・道具屋兼古金屋・煙草屋であり、酒屋から肴屋までの商売仲間には年番が置かれていた。
 府中では、薬種仲間・木綿糸株座・布商問屋仲間・塩商賈座・豆腐座・質屋仲間などが確認できる(賀川藤右衛門家文書 資5、辻川利雄家文書 資5など)。また、魚類の売買とそれをめぐる争論については第二章第四節で述べた。



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