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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      豆腐屋
 大野町における豆腐屋は、文政四年に八軒と一二軒の二つの株に編成された。八軒は従来より長年続いてきた豆腐屋であり、一二軒は開業して間がないものと思われる。後者の株はその家に限り許可されたもので、他へ譲渡することはできなかった。ところが、天保八年に大野藩が調べさせたところ、文政四年当時と同じ豆腐屋は二軒だけで、二軒が休業、残る八軒は経営者が替わっていた。そこで、譲渡あるいは売り渡した株は元の株主が買い戻すようにと申し渡されたため、困った豆腐屋からは現状を認めてほしいという願書が多数出されている。
 また、豆腐は、原料である大豆や燃料である薪の値段の高下によって小売値段が変化したが、豆腐屋が勝手に値段を決めることはできず、藩に願い出なければならなかった。当然のことながら、豆腐屋は、大豆が値上がりするとすぐに値上げの願書を提出したが、値下げの願書はなかなか提出しなかった。このため、安永三年(一七七四)八月には、「たうふ(豆腐)こぶり(小振)に致シ」値上げの願書だけを差し出すとは不届きであるとして、大豆は規格通り一箱に三升五合使用することを命じられている。豆腐の規格は、大豆を三升五合使用して一箱の豆腐を作り、それを一二に切った一つの大きさが長さ四寸五分、厚さ二寸八分を下回ってはいけないというものであった。値段の決め方は、天保八年七月二十六日の豆腐屋の計算例によると、当時の上・中・下の大豆一俵(四斗六升入)の値段の平均が四二匁であり、一箱分三升五合は三匁二分になる。それに薪代や手間賃を五分加えて、一箱の代金は三匁七分、銭では三七〇文となり、一二で割って一丁の値段は三〇文八分余とされた。同年は飢饉の年でもあり、米・大豆が値上がりしたため、八月十六日にも豆腐値上げの願書が出された。この時にも、近頃豆腐が小さいという風評があったので、藩は町年寄に命じ、実際に大豆三升五合を使用して豆腐を作らせ、寸法を計っている。それによれば、作ったばかりの午前十時頃には長さ五寸五分、厚さ二寸五分であったが、昼後の計測では、長さ五寸、厚さ二寸八分になっていた。しかし、規定の長さ四寸五分、厚さ二寸八分というのは無理のない大きさであるということが実証され、改めて豆腐屋に規定の寸法より小さくするなと申し渡している。



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