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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    一 城下町景観の変化
      火災と城下町
 江戸時代にはよく火災が発生した。城下町は家屋が連担していたために、フェーン現象による強い乾燥した南風が吹く時には大きな被害をもたらすことが多かったので、各町とも防火にはとくに留意していた。このことについては、第四章第一節に詳しいので、ここでは、都市構造に関係した防火対策に限って述べる。
 福井城下では先にも記したように、万治二年・寛文九年の大火後に、寺院の移転があり、城郭南東部の百間堀に面した侍屋敷を移転させ跡地を菜園地として火除地化した。
 大野町では、元文四年十一月に横町から南へ延びる熊野町から出火し、同町一二軒のうち一〇軒を焼失した。熊野町は水の便が悪く、しかも町の南方にあるため、翌年二月二十八日に全戸が熊野町の東にある春日町のさらに南方への移転を申し渡された。しかし、焼け出されて資金がないので引越し料として米一三〇俵ほしいという願書が住民から出され、藩は財政難でこれに応じられなかったので、町に接する北側の二軒だけが同町の南へ移転させられることになった。移転する二軒にはそれぞれ銀四〇匁、三〇匁が渡された。さらに、四月になり、横・熊野の両町から熊野町に新たに用水を通したいという願書が出され、渇水期の状態を見分した後、七月二十五日から二十八日まで人足延べ一二〇人をかけて長さ四〇間の熊野町新江の普請が行われた(「大野町年寄用留」斎藤寿々子家文書)。
 また、安永四年の大火後には、町の南にある火元であった野口村全戸とそれに続く一番上町の一九軒、二番上町の一四軒、大鋸町の五軒に、別の代替地に引越しするようにという「引地」が命じられた。これは町と野口村との間に火除地をつくるためであった。代替地となる畑の見分も終え、同年秋にはそれぞれの引地先も決められた。具体的な引地先は今のところ不明であるが、一番上町に居住していた藩士高井柳庵・安川藤七・橋本弁蔵の屋敷はその時に移転している。そのため、この三軒の屋敷跡前の道の除雪は、これ以後町人足でやるようにという達が翌五年の十二月朔日に出されている。しかし、これ以外の引地は将軍の日光社参のために藩側が多忙になり対応できないため取止めとなった。それで、引地の対象となっていた二番上町の清兵衛と一番上町の与次兵衛は、翌五年正月に元の屋敷地に家を建てることを許可されており、二月二日には、引地すべき田畑に作付をするよう命じている。そして、二月十八日には、引地すべき町のうち城に最も近い一番上町に対して、城のある側である西側だけでも家を建てる時に板屋根にせよと命じている。板屋根については、安永四年五月にも町蔵と商家に対して触が出ているが、寛政十年(一七九八)にはさらに厳しい触が出ており、とくに美濃街道沿いである本町通り(一番町)・七間町通り・五番町・横町はすべて葺き替えるようにと命じているが、なかなか実現しなかった(「大野町年寄用留」斎藤寿々子家文書)。
 その後、文政五年(一八二二)三月五日にも再度野口村から出火し大火となったため、今度は同村の町から離れた南方への引地と一番上町・二番上町・殿町などの北部の新町や東部の末吉町・春日町などへの引地が行われた。引地先の屋敷の年貢は、元の居住地の年貢率で納めていたようであるが、それでは五割六分・六割六分・七割六分と高く、しかも新しい町で居住者も少なく商売にならないため、弘化元年(一八四四)十二月に七年間に限って五割一分に引き下げられた。しかし、依然として状況が変化しないため、期限が切れる七年後の嘉永五年(一八五二)八月にも、引き続き七年間五割一分のままに据え置いてほしいという願書が出されている(「大野町年寄用留」斎藤寿々子家文書)。また、文政十年の大火の後には城内の防火のため、一番町の西側に堤防を築き、松を植えさせた(前『福井県史』第二冊第二編)。



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