目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    一 城下町景観の変化
      城下町福井の変貌
 福井城下は、万治二年(一六五九)・寛文九年(一六六九)の大火と貞享三年(一六八六)の福井藩の半知、享保六年の松岡藩の併合によって大きな影響を受けた。万治二年の大火は大名広路から出火し、高知屋敷の過半と町家約一七〇〇軒を焼失した、城下始まって以来の大火であった。次いで、寛文九年の大火は勝見村より出火し、天守を初め城内のほとんどの建物を焼失し、家中屋敷六一四軒のほか町人町でも寺院三七か寺、町家二六七六軒を焼失した(第四章第一節)。万治二年の大火後、城西の町人町と城北の町人町の間にあった寺院のうち、西別院・真宗寺・照護寺・本覚寺・千福寺などは、新たに城北の与力・足軽屋敷の北に寺地を与えられ移転し、光明寺・勝楽寺などは田原町の北に、浄得寺・称念寺は橋南の山奥村に移転した。また、寛文九年の大火後には城の南東部に位置する長浜町の南の二番町・三番町・四番町・五番町にあった町家・寺院と荒川に面していた崇福寺など五か寺が城下東端の外中島へ移転し、その跡地に百間堀を挟んで城のすぐ南側にあった侍屋敷が移転し、侍屋敷跡地は菜園地とされ火除地の役割を果たした(『稿本福井市史』、「福居御城下絵図」など)。
 貞享三年の半知は、侍屋敷地区の減少という都市景観の変化をもたらした。士卒二〇四一人に暇が出されたため、これらの侍や中間・足軽などが住んでいた場所が空地になったのである。その場所は、城下南東部の城之橋町一帯と橋南の毛屋一帯であり、多くが畑地となった。毛屋新開町や木田の北組町・南組町のように、跡地の一部が地方町となったものもある。これによって、毛屋の侍町と城内を結んでいた毛屋の繰船も廃止された(『続片聾記』)。

(準備中)

写真52 毛屋の繰船(「福井城下眺望図」)

 享保六年、松平昌平(宗昌)が松岡藩主から福井藩主になり、所領五万石も福井藩に併合された。宗昌は同九年に死去し、家督を継いだ宗矩は、十年十月十八日に松岡の館と藩士の福井への引越しを幕府に出願し、二十日に許可された(「家譜」)。そこで、十一年に館を福井に移し、十四年には取り壊した。十五年には徒士を城之橋に移し、十六年と十九年には家中を毛屋へ移した。この引越しは元文四年(一七三九)十月頃までには完了したようである。これによって、半知以後空地・畑地になっていた城之橋・毛屋に再び侍が住むことになった。毛屋の繰船も同四年十二月から再開された(『続片聾記』)。なお、この繰船は、文久二年(一八六二)九月に幸橋が架橋されて廃止された。



目次へ  前ページへ  次ページへ