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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    一 城下町景観の変化
      城下町鯖江の成立
 このように西鯖江村は寒村であったため、間部氏は付近に城下を建設できる村や城跡がないかも調査させたが、鯖江以外には適当な村はなかった。享保六年三月二十六日に鯖江領の受取りを終え、家中が村上から鯖江に引越してきた。しかし、西鯖江村には居住できる家が少なく、四月二十五日付の御用状(「従江戸到来御用状」間部家文書)には、家中の宿になるべき百姓家が、遠方の村には三軒、五軒とあるが、鯖江に近いといっても陣屋から一里内外も離れている村には一か村に一、二軒と少ないことが記されている。そして、毎日勤める役人は遠方に分散していては不便であるので、当分は寺門前の家を借宅するが、陣屋内に藁葺きでもいいから長屋を建てる必要があると江戸に報告している。
 家中は百姓家の空部屋を仕切って分宿することになったが、その空部屋は蚕を飼っていた部屋であり、当然台所・湯殿・雪隠なども百姓の家族の分しかなく、百姓にとっては迷惑なことであった。そこで、滞在が長くなる場合、台所などは藩の費用で増築すべきであること、陣屋続きの畑・芝地に家中や小役人以下が居住する藁葺きの掘立長屋を享保六年の秋までに建てることを江戸に進言している。同七年の六月七日・七月十九日の御用状によれば、東鯖江村の芝地に家中の屋敷割をし、大小七〇軒の長屋を建てる計画であるが、当年はとりあえず半分を建てることが記されている(『鯖江郷土誌』)。また、後述するように、同十年頃の絵図をみても、家中屋敷については計画段階のものであり、百姓家への分宿はかなり続いたものと思われる。
 分宿の実態をみると、秋元喜兵衛の場合は今立郡中新庄村の庄屋宅に享保六年五月八日から宿泊しており、七月二十一日に陣屋の内に移っている(『鯖江市史』通史編上巻)。したがって、七月には家中が居住できる長屋の一部が陣屋の中にできたことがわかる。また、鯖江から約八キロメートル離れた、後に村替えによって小浜藩領となる同郡小坂村には、五軒の百姓家に家族も含めて計二三人が分宿していた。この中には五月三日から七日まで五日間だけの滞在という者もいるが、五月三日から八月九日まで一二四日間滞在していた者もいる(「間部下総守様内御組衆中御宿賃帳」真保徳右衛門家文書)。伊東又次郎は、同郡西袋村の百姓弥平家に宿泊していたが、十一月二十日に同家から出火し家財道具を焼失したため、しばらく山口庄次兵衛方に身を寄せている。十二月五日の御用状には「百姓家致吟味為移候様可被申付」とあり、この後別の百姓家に移ったものと思われる。
 享保六年二月に江戸の上屋敷が焼失し、その再建も急がれたので、鯖江における侍屋敷や御殿(藩主居館)はもちろん長屋の建設は容易には進捗しなかった。侍屋敷・長屋のみならず、代官から引き継いだ陣屋の施設も整備しなければならなかった。陣屋には、吟味方道具・日用の諸道具を収納する土蔵が一つあっただけで、武具・馬具等を入れる土蔵や米蔵はなかったからである。さらに、建設に必要な材木も、藩領の山々のものは年貢の不足を補うために伐採されており、入手が困難であり、長屋・厩は村上で使い残した材木で建てることが計画されている。



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