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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    一 城下町景観の変化
      城下の都市計画
 鯖江台地上のうち西側の西鯖江村に属する畑地・芝地に鯖江藩五万石の城下が建設されようとしていたが、最大の難点は北陸道を挟んで東側の東鯖江村は小浜藩領であり、西側にも誠照寺の門前があって、一円的な支配ができなかったことである。そこで、鯖江藩は西鯖江村の庄屋に、町家の建設が想定される北陸道に沿った土地を東鯖江村から借地させようとした。しかし、これは小浜藩の協力が得られず、実現しなかったため、鯖江藩は幕府に東鯖江村の村替えを願い出た。この願いは享保六年九月九日に許可され十一月二十八日に引継ぎが完了し、ようやく城下建設が本格化した。

表73 鯖江城下絵図一覧

表73 鯖江城下絵図一覧


写真50 鯖江藩古図

写真50 鯖江藩古図


写真51 鯖江町絵図

写真51 鯖江町絵図

 城下の建設を具体的に物語る史料は少ない。間部家文書には享保七年から十年の記録が十分には伝存していないからである。そこで、同時期に作成されたと思われる表73の六点の絵図から考察してみよう。
 (1)は先の足軽の報告の付図と思われる概念図であり、実測されたものではない。(2)は東鯖江村が鯖江藩領になる前の現況図であり、北陸道の西側については実測されたものと思われ、陣屋の南側には朱で長屋・厩などの計画が書き込まれている。注目すべきは、村替えによって東鯖江村が藩領になった後のものと思われる(3)(写真50)である。図の左下に「鯖江御作事」と記されているように、藩の正式な計画図の写図である。これによれば、北陸道の両側に町人町を置き、その東側の大半と西側の誠照寺の北側と幕府の代官陣屋を引き継いだ陣屋の南側に侍屋敷地区を設け、そして陣屋と北陸道を挟んだ反対側におそらく御殿を建設する計画であった。御殿の周囲は、幅二間、深さ三間、長さ二〇五間半の堀で囲まれ、その内側にも敷三間、高さ七尺、長さ二二三間の屈曲した土居がめぐらされ、土居の上には高さ五尺五寸、長さ三二間の塀と長さ一九一間の柵が設けられる予定であった。北陸道から陣屋・御殿への入口にはそれぞれ枡型が計画されていた。
 しかし、この計画は財政難などによって実現せず、(4)(写真51)のように、北陸道の東側はすべて侍屋敷とし、代官陣屋を拡張・整備して御殿や藩の諸施設を設けるように変更された。この(4)も計画図であり、最も東側に三五軒建てられる予定であった侍屋敷は、実際にはかなり縮小され、安永八年(一七七九)前後の絵図では七軒しか建てられておらず、また、陣屋の南側には藩の諸施設が建設されている。
 なお、誠照寺門前の支配については、当初は幕府領時代のように関知しない方針であった。しかし、享保六年六月の幕命による諸国田畑反別・人別改で門前の扱いが問題となった。結局、九月に幕府寺社奉行から藩に、十月に触頭寛永寺から誠照寺に指令があり、十一月に誠照寺分も含めて報告することになった。しかし、諸触達の伝達や毎年の宗門人別改などは依然として誠照寺が担当していたため、藩は寺社奉行に働きかけ、ようやく同十三年十二月に藩に帰属することになり、鯖江町の一円的支配ができるようになった。



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