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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    四 枝浦の独立
      白浜反子
 文政七年(一八二四)閏八月、大丹生浦と枝浦の白浜との間に漁魚について申分が生じ、大庄屋の仲介で内済が成立した(片岡五郎兵衛家文書 資3)。この事件は、寛文十一年(一六七一)の奉行所裏判付「取為替定証文」に反して、白浜漁師が釣魚を近村・近浦へ「脇売」したり、さらに「干烏賊」(鯣)の加工をするために、本浦商人や馬稼達が訴えたものであった。
 白浜はこれに対して次のように反論した。脇売りについては、「大丹生浦商人中申合輪買ニ被致、直段下直ニ相成候」ことになったためやむなく始めたものであり、干烏賊については、「二十余ケ年以前村庄屋方入用之干烏賊指免シ為致候」ことより始まった理由のあることであるとした。庄屋は両者の妥協案で解決を図った。
 寛文十一年の「定証文」に、「白浜漁師共釣申諸魚大小共大丹生浦商人へ売可申、尤脇売仕間敷勿論替物ニ茂一切仕間敷」とあるとおり、この定を守ることになった。もっとも、大丹生浦商人の「輪買い」は禁じられ、買上げ値段は「隣浦並み」とされた。干烏賊の件は、寛文の「定証文」に規定されていなかったが、新たに、烏賊の漁獲高のうち六歩五厘分を本村方の商人に売り、残りの三歩五厘分は白浜が干烏賊に加工してもよいが、その製品は本浦商人へ売り渡すこととなった。
 また、「出漁」(出稼)の件は、親方に届け親方より村庄屋へ断りを入れた上で、三国湊への出漁だけが認められた。これは、三国湊の魚市場が整っており、脇売・抜売に相当する行為が防げたからであろう。
 文政七年の内済証文には、大丹生浦の「そり子親方」三人、同浦枝白浜の「漁師惣代」六人、長百姓・庄屋の計一一人が捺印している。反子の家と舟の数については、寛政三年(一七九一)「高家人馬帳」に「諸役御免家_枝白浜」として、雑家一五、人口九〇、漁船六艘が書き上げられている(松本家文書)。享和三年(一八〇三)には大丹生浦六九軒に対して白浜一八軒とある(『伊能忠敬測量日記』)。明治五年(一八七二)には、さらに白浜の戸数は増大し、四〇軒となっている(「足羽県地理誌」)。
 反子三か浦の中で、白浜がいち早く独立を達成した。これは、右の干烏賊の加工と三国湊への入津が許可されたことが大きく作用したようであり、天保五年(一八三四)以前に「肴庄屋」の新設に成功し、本浦からの自立に大きく踏み出した(鮎川区有文書)。安政四年の枝浦清水谷と争論の中で、鮎川浦は「白浜振合之義ハ漁魚等も気侭ニ取扱、既ニ当節ニ而ハ元村大丹生浦・ハ相勝れ候振合と相成、夫ニ応し大丹生浦親方頭分之者共ハ次第ニ零落ニ相成候」と述べ、独立後の白浜の繁盛振りが知られる(同前)。幕末の白浜の発展振りは、家数の急激な増大からもわかるところである。



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