目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    四 枝浦の独立
      清水谷反子の自立
写真48 鮎川浦(「海岸図面」)

写真48 鮎川浦(「海岸図面」)

 清水谷反子について、鮎川区有文書によってみることにしよう。清水谷反子は鮎川浦親方衆との寛延三年(一七五〇)の極証文により、鮎川浦一六人の商人への魚売りと、彼等からの飯米の買入れが義務づけられ、また、反子の奉公稼人の請銀のうち八匁は、親方に冥加として差し引かれることになった。反子には、それぞれ特定の親方がつけられており、五、六月の漁稼分については、親方と舟主へ一割ずつを、秋・冬の漁稼分は舟持親方に二割分を渡す極めとなっていた。
 魚と飯米の値段について反子が不満を示し、宝暦十一年十二月に内済取極が成立した。本浦の鮎川浦がこれまで納入してきた海役・舟役・肴役に対して、家数四七軒・人数四〇〇人余にも増大した反子は本来「無役」であったが、反子の希望により「猟船頭役永」の名目で永一貫五〇〇文を上納することに決まった。上納は反子からの直納は認められず、本浦の庄屋が取り次ぐことになったが、反子の内から「惣代」一人を立て、「右御役永上納又者諸魚大小分方、諸事直段物取計ひ、願事等庄屋取外字之節右惣代立会」い、反子代表として村庄屋の補佐・監視役の権限が与えられた。とくに「諸魚直段之儀隣浦之格と高下無之様、親方并そりこ惣代立会相極候」と決まったことは反子にとって大きな成果であり、また親方の許可を得て反子が自舟を造ることも認められた。
 明和五年(一七六八)九月の訴状には、鮎川浦反子たちは従来より「諸役不相勤、家作其外猟具・飯料等迄親方百姓共より仕込遣、そり子之猟魚を親方江請取、村人共魚商」ひをしてきたが、この事態が大きく変化してきたとあり、反子自ら「家作」をする者三軒、親方舟二二艘に対し反子の「自船」は五艘になり、「自分仕込」をする者も現れ、また他所他村の仕込みを受け、漁魚を他所他村へ「直売」したり、酢・醤油の「小商ひ」をするなど、村法・浦法度を破る者が多くなったと、鮎川親方たちを大いに嘆かせている。
 新浦法では、反子自舟も親方へ一割口銭を納めること、自舟は今後一〇艘以内とし、他所商人魚荷も鮎川の人馬を雇うこと、家作・小商いも村方・親方の許可を得ることなどが決められたが、全体として新しい事態を全面的に禁止するというよりも、反子の一存でなすのではなく、村方・親方の許可を得た上でなすべきことが再確認されている。
 天保五年十月十九日に福井藩中領役所から、「大丹生漁師白浜人共之振合を以肴庄屋壱人被仰付候間……冥加銀三百匁ツヽ御代官所へ上納可有之事」という書下が鮎川浦庄屋・親方・反子宛てに届けられた。この件は反子の願いによって実現したものであるが、従来の江戸裁許書に相違するとして本浦である鮎川浦がこの書下を「御受不申」という事態にいたった。これは南隣の大丹生浦の枝浦白浜が「肴庄屋」を立てていたことに倣ってのことで、白浜が独立浦のごとくに振舞っている実態をみての本浦の反対であった。そこで、役所よりは新たに「諸事御触流之義者、村方役人より可申達候、其外何事によらず、村方并親方之差図ニ相随」うべきことと、「御召御肴」も村役人より納めるべきこと、さらに漁魚の他所商人や三国湊・他浦への直売り、福井城下の問屋への直送りなどの禁止の条項が追加されることになった。
 安政四年三月、清水谷は「御手形七俵」上納の願書を藩の勘定所へ願い出、これを知った鮎川浦は「右御手形上納相叶ひ候時者、往々ハ御年貢同様ニ申立、終ニ者浦方之手も相離れる」目論見(企て)であるとし、先述の白浜の例をあげて反対した。清水谷の「御手形七俵」上納の件は、天保五年の「定」に違反するとして却下された。鮎川浦は、清水谷の御手形七俵の「代り」として、同年四月浦山のうち字与兵衛山(八一三〇坪、松四三〇〇本)を藩の「御立山」として差上げを願い出て、八月に下知(許可)があった。
 文久三年(一八六三)五月四日、清水谷は生鯛を「御献上」として舟で城下へ持ち運んだが、藩の役人は「御代銀五拾匁」を下げ渡した。清水谷は「村方を差置自分立ニ致目論見通異念相離れ不申……御肴御献上と申義者表立候名目ニて内実……他浦へ漁魚直売可致目論見と奉推察候」ことと鮎川浦から訴えられ、同月十七日肴庄屋甚右衛門は入牢となり、肴庄屋役は取り上げられた。
 宝暦十一年の漁舟舟頭役永の納入と惣代役の設置、天保五年の冥加銀三〇〇匁納入と肴庄屋の設置と一歩ずつ進捗したかにみえた清水谷反子の独立への願いと運動は、遂に鮎川浦親方達の強い反対にあって、幕藩体制が維持されている間は実現をみることなく、ようやく明治二年に一応独立の浦となった。



目次へ  前ページへ  次ページへ