近世初期に現れる越後の「かわさき舟」、加賀の「かもうり(冬瓜)舟」、越前の「そりこ(反子)舟」などは、いずれも西国系の舟で、その舟形からつけられた呼称であろう。
江戸を初めとする城下町では、将軍・大名から一般武士にいたるまでが、祝日・祝宴または料亭用として多量の鯛を消費した。これまでの淡水産の鯉に代わって、鯛が高級魚料理の主役となった。鯛の姿や色彩は見映えがよく、武士の好みに適していたからである。
元禄(一六八八〜一七〇四)年間には、町方の商家にもこの風が広まったらしく、敦賀を舞台にした井原西鶴の「銀のなる木は門口の柊」(『日本永代蔵』)の中で、年越屋の惣領の嫁取りの祝儀物に、角樽と並んで「塩鯛」が出てくる。一般の商家では生鮮(無塩)の鯛は高価であったので使われなかったようである。
近世初頭の越前では、四季ともに「鯛釣り」ができる漁師はおらず、西国出身の鯛釣り専門の「反子」と呼ばれた漁師だけが釣っていた。彼等の乗っていた舟は、越前では見かけない舳先(船首)が著しく反った、いわゆる「反子舟」であった。この舟は近年まで出雲地方(島根県)で使用されていた丸木型の舟であるが、容易に転覆せず、波を切って快速であったという。
この西国の鯛釣り漁師は、彼等が乗っていた舟名をとって「反子」と呼ばれ、やがて丹生郡の城ケ谷・白浜・清水谷などに定住して、鰈や鱈の延縄漁にも従事した。彼等の越前来住の時期については諸説がある。
清水谷の反子については、『越前国名蹟考』が鮎川浦の項で、「反子……一浦の人数高の外の漁父ニて……いつ頃の事にや出雲国猪島とやらいふ所」と記し、出身地は出雲としながらも、来住の時期は不明としている。しかし、宝暦十一年(一七六一)十二月の「舟頭役永納方ニ付内済」(鮎川区有文書)では、「無役之そりこ明暦元年之証文も有之」とあり、これによって明暦元年(一六五五)以前に清水谷反子の存在が認められる。
城ケ谷反子については、慶長十一年(一六〇六)十一月の「永譜代子方筋口書事写」(相木惣兵衛家文書)に、「出雲国より慶長九年未の春当新保浦流付、清太夫様御介抱ニ而」とあるが、この文書は後代の偽作かと思われる。 |