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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
     三 新しい動き
      農村の海への進出
 海付きの村でも、漁業を行わず漁業権が保障されていない浦を一般に「端浦」と称し、また越前丹生郡では海岸段丘上の村は「山家」と呼ばれ、地付の海であってもその権益は著しく制限されていた。
 若狭三方郡丹生浦と竹波村は中世以来、たびたび漁業権を争ってきた。応永三十一年(一四二四)七月の「丹生浦山沽却注文」(丹生区有文書 資8)の絵図に、「塩釜 此塩汲浜、年貢として毎年丹生浦ゑ代五百文つゝ出之」と注記があり、竹波は漁業権はもちろん、塩浜さえ隣の丹生浦に押さえられていた。永正十七年(一五二〇)八月、丹生浦と竹波村が網場相論を起こしたが、幕府裁定で竹波村の敗訴となった。近世になって、寛永十八年十月丹生浦が竹波村の前海に入れた「いか(烏賊)網」をめぐって、竹波は争いを起こしたが、丹生浦の朝鮮出兵時における水主役や大坂・小浜城普請の石船役負担の有無を根拠にした漁業権の主張の前に、再び敗訴した(同前)。
 寛政二年三月、竹波村は「こなご(小女子)網」を村前の海に入れた。丹生浦は「隣郷之儀心易キ近村之者共ゆへ」と、自浦の大網の支障にさえならねばと黙認した。これまで丹生浦に納めてきた中世以来の「汐汲代銭五百文」を藩へ直納し、これを「海手」と称していたらしい。竹波はこの海手直納を根拠に、遂に新規の網入れに成功し、既成事実の積重ねの上に「地付漁業権」の一部獲得に成功したのである(丹生区有文書)。
 敦賀郡東浦の一〇か浦は「塩浦」として、漁業にはほとんど従事することはなかった。享保五年鞠山藩領の横浜浦庄屋嘉兵衛が自浦前の岡崎に台網を建てる願書を提出したが、小浜藩領の漁師町(敦賀両浜)が従来からの漁業権を主張したので、受理されなかった(港町漁家組合文書)。
 明治三年六月、五幡浦が往古よりの海役銀上納を根拠に、村方小前百姓の渡世のため、漁師町の支障にならない磯漁の許可を鞠山藩役所に願い出た(港町漁家組合文書)。この願書提出は、これまでも五幡・赤崎・挙野・横浜・大比田・元比田の六か浦が折々「柴舟」を使って、鯖釣漁をしてきた事実を踏まえてのことであった。
 杉津浦については、両浜舟が冬・春の西風の際に、地元に着船し世話になるからとの理由で、自給用に限り二艘の鯖釣舟を文化初年に両浜が黙認した事実がある。文化(一八〇四〜一八)頃に五艘に増えたが、元の二艘に戻された。鞠山浦も出漁していたが、両浜は藩の役人用と思い断りを入れずに放置していたという(港町漁家組合文書)。このように、幕末には東浦一〇か浦のうち八か浦が、自給用の食料分に限っての小規模漁業を非公認とはいえ行っていたのであった。
 貞享四年四月、幕府領福井藩預所である丹生郡八俣村前の浜地に茶立三本が吹き上り、その漂着物の取得権をめぐって、海上の漁業権を保持してきた隣村の左右浦と地元の八俣村が争論となった。組頭の天谷村掃部の取扱いで、漂着物は発見者に優先権を認め、難破船については、例法どおり左右浦の漁船と八俣村の柴舟が立会で支配することで内済した。
 享和三年(一八〇三)六月には、幕府天文方伊能忠敬一行が測量のため八俣海岸に差し掛かった折、八俣村人が舟を漕ぎ出し、幕府役人に直訴して海上支配権の獲得を企てている。文化三年九月、一、二里の海辺に限り柴舟で柴だけ積み出せる「極り」を破って、八俣村が木ノ実(油実)を小浜へ運送し、左右浦から訴えられた。十二月江戸御預り役人より、八俣浦が塩役以外の海役・肴役・船役のいずれも納入していないことから、漁業権はもちろん海運権も否定された(八俣区有文書)。従来どおり、一艘ある柴舟で自村産の柴の運送のみが認められるにとどまり、八俣村の海への進出の努力はまったく報いられることなく、先規に従って全面否定された。



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