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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
     三 新しい動き
      油桐の栽培
 衰退を見せ始めた若越の浦方、とくに若狭において新しく油桐の栽培が導入された。江戸時代中期に成立した小浜の地誌『拾椎雑話』には、この油桐の栽培について「宝永の初より大いに植え広げ、此油他国への商物となる。大坂にて桐油、北国にて若狭油という」とあり、また同じ頃に書かれた『稚狭考』には「本国の山野出さざる所なし」と記されている。
写真46 桐油のラベル

写真46 桐油のラベル

 油桐の栽培が小浜藩領の若狭や越前敦賀郡で始まったのは、承応二年のことである。当時の小浜藩主酒井忠勝は、この年「桐之木」を領内各地に植付けすることを国元に指示している(「酒井忠勝書下」)。この油桐の栽培はこの後順調に進み、ことに気候の温暖な沿岸部の浦々で多くなされるようになった。
 中世の海村としてよく知られた三方郡神子浦で、その様子をみることにしよう。神子浦は村高一六石三升の浦で、中世には漁業の外に塩業を主な生業としていた。この浦で、油桐の栽培の様子を知ることができるのは貞享四年(一六八七)のことである。この年の「神子浦桐木改帳」によれば、油桐の数は全部で一〇二本、そのうち実のなるものが三七本、切株二九本、植木三四本、その他二本であった。貞享四年から五五年後の寛保二年(一七四二)の「神子浦新畑改帳」によれば、油桐の本数は四七五〇本と大幅に増加している。また、この年の神子浦で「開畑」とされた畑地一九九筆、一町八反三畝のうち、実に油木畑が一九八筆、一町七反九畝一五歩を占めている。
 油桐の生産が浦々にとっていかに重要な生業であったかは、油桐から採取される油実(ころび)の販売額からもうかがうことができる。正徳四年(一七一四)小浜富沢町の茶屋源右衛門が神子浦より「ころび」五〇俵を運賃五〇匁を含む銀三貫四〇〇目で買い取っている。この額は、同じ年の神子浦の本年貢一三石五斗四升一合(銀一貫九三四匁五分)と舟手銀・漁成・山手などの小物成一貫三一九匁二分の合計三貫二五三匁七分を上回るものである。「ころび」販売がこの浦にとっていかに大きなものであったかを知ることができる。なお、「ころび」の生産は近代にいたっても盛んであった(第三章第二節)。



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