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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
     三 新しい動き
      新田開発
 漁獲高の年々の偏差は大きく、また若越の浦々における冬季の沖漁は大きな危険をともなうため、釣漁を主体とする漁村の生活は不安定であった。
 敦賀郡立石浦は、敦賀半島の先端に立地する「外浦」で、西隣りの白木浦と共に、田畑も塩田もないまったくの「無高」の村であった。古くは七二軒あった家数も、寛永十九年(一六四二)の飢饉で四八軒に減り、さらに承応三年(一六五四)には一三軒になり、沖漁船も一六艘から四艘にまで減少した(刀外字秋男家文書、海安寺文書)。こうした中で、漁業一辺倒の純漁村から脱却し、内浦同様に耕地を持つ半農半漁の安定した途を求める者が村内から現れた。
 元禄三年(一六九〇)在所の西外れにある立岩谷にわずかな畑地が開かれ、同五年一里ほど西の阿弥陀見に庄屋左衛門二郎が新田の開発に乗り出した。同十一年以降、年寄・舟元衆など村の上層部の人たち数人が加わって、かなりの田畑が開墾された。享保十六年までに四回に及ぶ役人の「見分」を受け、宝永二年に一石から始まった「冥加米」の上納は五石(代銀納)となった。この冥加米の貢納を条件に、耕地の開発と耕作が藩当局から正式に許可された(刀外字秋男家文書)。
 明治四年(一八七一)に小浜県税役所へ提出された「冥加田所反別帳」には、「下田二町三反八畝三歩、石盛七斗、分米一六石六斗六升七合、免三ツ、此納米五石」と記されているが、明治十四年の「立石浦地誌取調帳」になると、「税地 田一一町八反五畝二三歩、田五反九畝二一歩、宅地六反一畝二一歩、物産米七三石五斗六升二合」となっている(立石区有文書)。明治四年の数値は江戸時代の冥加米上納体制に整合させたもので、むしろ同十四年の方が享保十二年の数値に近いと思われる。
 立石浦の在所から六キロメートルほど西に白木浦がある。この浦も立石浦とともに無高の村であるが、立石浦を見倣って新田の開発を始め、明和(一七六四〜七二)年中以前に集落近くの在家田から長谷田に開発がおよんでいた。この新田は天明四年(一七八四)に初「見分」を受け、五俵の冥加米の上納が決まった。明治五年の「隠田畑屋敷地価取調帳」には、田畑二町九反八畝二九歩、冥加米一石九斗八升九合余と記されている。田地の所有高は、庄屋・年寄など村役人層が上位を占めていたことは立石浦と同様で、貢租も「年貢米」ではなく「冥加米(銀)」であった(白木区有文書)。明治十一年の「滋賀県物産誌」では、田畑六町六反一畝、米生産三六石四斗となっており、戸数は立石浦の約半分の一六戸であった。
 立石浦の村勢も近世初頭の七二軒には遠くおよばないが、新田開発後の享保十四年には二七軒(うち寺一)・舟一七艘にまで回復し、西浦一〇か浦中最大の浦となった(「敦賀郷方覚書」)。嘉永五年(一八五二)には延縄船五艘、天道船一一艘の大船と幾艘かの磯見舟を持つまでになった。明治十四年の家数は三一軒(うち寺一)、小舟三〇艘となっている(立石区有文書)。
 純漁村の立石浦は、元禄期に自力で新田開発を遂げ半農半漁の浦方となったが、開発が一段落し浦の生活が一応安定しだすと耕作は女子供に任せて、男達は積極的に漁撈に進出した。早くも、開発の最中の元禄十二年に新規の目広手繰網を曳き始めると同時に、沖延縄漁の再開を企てた。六人の舟元は漁舟一艘当たり五両、計三〇両の拝借金を藩庁に願い出て、二〇両の拝借金を得た。立石浦は早速七人乗りの延縄船六艘の購入に成功した。その後の享保十八年にも一艘当たり五両、五艘分二五両の拝借金を一〇年賦で願い出ている(刀外字秋男家文書)。従来ならば、年貢の減免願いという消極策しか採りえなかった浦人が、新田の冥加金と「御寒鱈」の納入の二つの条件の「願い出」という形式を整えて、浦方にとって最大の生産手段である沖漁船の購入資金のために藩庫を開かせることに成功した。ここに、立石浦漁師の海と漁への情熱と政治的成長をみることができる。



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