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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
     三 新しい動き
      海運業への進出
 越前南条郡今泉浦は、府中と河野・今泉両浦間を結ぶ西街道に付属する浦方で、中世以来の伝統的な「渡海浦」であった。今泉浦が所有する享保二年(一七一七)の大小四種一二艘のすべてが海運業に従事する渡海船で、その内訳は北国船四艘、弁才船一艘、羽風船一艘、伝渡船六艘であった(西野次郎兵衛家文書 資6)。
 しかし、専業の渡海船を持たない一般的漁浦でも、沖漁に使用する漁船は商船としても利用された。船の長さは六、七尋あり、六、七人乗りの大船であったからでもある。
 宝永三年(一七〇六)六月の「厨浦明細差出帳」(青木与右衛門家文書 資5)に、
 一、漁船九艘 但つのじ・鰈・鯖釣申候、是ハ極月・四月時分迄漁商売仕候、
 一、雑石(殻)之儀ハ所ニ作り候而も薄畑故年中用申程無御座、大分之不足、若狭・丹後・買調申義ニ御座候、
 一、当浦之義、漁あがり・御高作方ニ而渡世無御座候ニ付、船持之者ハ丹後・若狭又ハ越後迄も加賀辺へも口過ニ商ニ廻り申候、
とあるとおり、厨浦は自らの魚船を商船に仕立てて穀物の買付けなどに他国まで出向いている。しかし、享保十一年の若狭三方郡神子浦の場合は、「猟働之男少々御座候而も、早瀬・敦賀・小浜船乗奉公のミ仕、在所ニ而ハかせぎ之力無御座候」(「神子浦小物成赦免願」大音正和家文書 資8)とあり、他所である小浜・敦賀の湊町の廻船の雇われ「水主」となっていた。これは近隣を含む浦の規模が小さいことによるものであろう。
 十八世紀も終わりになると、漁浦における漁舟と商船の分業が進み、専業化した。寛政元年(一七八九)頃の丹生郡四ケ浦における海運業の盛んな様子がわかる(表68)。なお、寛政五年の上海浦の商船は二〇石から六〇石積舟で二人乗りと三人乗りの小規模な磯廻り舟が主であったが(表69)、明治に入ると七〇石以上二五〇石積の渡海船となっており、家数も一六四軒に増加し、寛政五年に比べて倍増している(表70)。浦方の性格も幕末には大きく変化し、魚商や廻船業のような流通・商業部門が大きな比重を占めるようになり、家数の増大もこのような新しい生業によって支えられていたことがわかる。
 なお、磯廻り船の取り扱った品々は、出津品では「炭・木実・油・肴荷物」、入津品では「米・塩・菜種・鯡・身欠・昆布」(岡田彦三郎家文書)であり、近隣の山家や里方をも商圏にしていたことはもちろんである。
表68 寛政元年(1789)丹生郡四ケ浦の船数

表68 寛政元年(1789)丹生郡四ケ浦の船数



表69 寛政5年(1793)丹生郡上海浦の船数・人数・家数

(準備中)



表70 明治3年(1870)丹生郡上海浦の船数・職業別家数

表70 明治3年(1870)丹生郡上海浦の船数・職業別家数




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