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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      越前四ケ浦と府中魚問屋
 近世後期になると、若狭早瀬浦の例でみたごとく、浦方の背持・棒手振の行商が盛んになるが、このことは越前でも同様であった。天明三年(一七八三)に四ケ浦の笊振り三人が小浜湊で買い求めた「索(素)麺」二〇箱を在方に売りに出て、河野馬借の帰り馬を利用したため、河野三宿の馬借と出入に及んだ。その返答書の中に、
私共浦方之義ニ御座候へハ、猟船共釣揚之魚類買求、福井・府中并近郷内江棒手振之肩一はい荷ひ歩行売払、稼之第一ニ仕候、……ざる振共近郷内ヘ持運び棒先之商業ハ是迄四ケ浦ニ而数百人之者共之境界(涯)ニ仕来候、……四ケ浦大勢之笊振共古来・致来候稼業……
とあり(相木嘉雄家文書)、四ケ浦(下海・上海・宿・新保)から福井へ九里、府中へ六里といわれ、丹生山地の嶮道を越えての行商であったが、盛行した様子がわかる。これら棒手振の中には「女・童」も多くいた(岡田健彦家文書 資5)。
 福井魚問屋の口銭は、「下地口銭七歩」であったが、安政二年(一八五五)より五か年に限って、一歩増しの八歩となった。これは前年、前々年と相次いだ火災による「銀子融通方調兼」という理由で、六人の魚問屋仲間が越前四八か浦に触れ出していたが、浦方の大きな抵抗にあって翌年には撤回している(岡田健彦家文書 資5)。
 丹生郡の浦方にも多くの魚仲買商人がおり、四ケ浦の一つである上海浦には一七人がいた。天保九年(一八三八)の浦法に「漁方魚売々之儀者、古来・其浦限り、外浦へ遣し候義不相成御定」(岡田健彦家文書 資5)とあるとおり、漁師は他浦の仲買商人に魚売りはできず、浦内での仲買商人の独占的魚買取権が保障されていた。
 越前の仲買人・棒手振と府中魚問屋の間に、弘化元年(一八四四)に問屋仕法をめぐって事件が起った。天保十四年にこれまで二軒であった府中(武生)の魚問屋が三軒に増えた。ところが、翌年に三問屋が談合して、月代わりに一軒限りの「振立」にし、利潤は三軒が分け合った。丹生・南条両郡の二〇か浦などが役所へ訴えると共に、鯖江城下や府中近くの下広瀬村に振市場を立てて対抗した。府中三魚問屋は浦方に折れ、「元通り之趣法ニ立戻り度候間、是迄之通りニ魚荷物御送り方御頼御詫申入候」と、詫びを入れることでこの一件は落着をみた。福井魚問屋の口銭一歩増し事件といい、また府中魚問屋一軒市立の件といい、いずれも問屋方の仕掛けに対して、浦方の反撃が勝利を得ている。
 魚問屋から魚を仕入れ、小売をする肴屋は、福井には宝暦十三年には一七一軒があり、酒屋の一五三軒を超えて、職業別では最多の軒数であった。また、府中町でも肴屋が最も多く、貞享四年(一六八七)の町役銀の中で肴屋役銀六〇六匁余は、糸役・紺屋役の合計に次いで高額であった。
 こうした多くの魚屋の存在と魚介類が日々の庶民の食生活にも深く根をおろしていた現実が、魚問屋と浦方の紛争を長期化することを許さなかった。紛争で魚の入荷が止まれば、その混乱の責任は浦方よりも事件を仕掛けた問屋側により大きく求められる結果となり、問屋方が詫びを入れ元の姿に戻すしか解決の方法はなかったのである。



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