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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      越前三国と福井の魚問屋
 正保二年刊の『毛吹草』に、三国湊の特産物として、鱒・鮭、鱈・外字・蒸鰈、老海鼡・大蛸などが書き上げられており、三国湊は若狭小浜と並ぶ海産物の名所となっていた。海魚と共に鱒・鮭などの川口付近の漁に特色があり、沖延縄・沖手繰網・建網などの盛んな様がわかる。三国には、越前丹生郡北部と坂井郡の浦々から多くの海産物がこの湊に運ばれ、これらを取り扱う魚問屋も幕末には二軒あった(「三国鑑」)。小浜・敦賀の魚商が上方や近江・美濃を商圏としたのに対し、三国は主として越前北部を商いの対象としていた。
 福井の魚問屋は、三国の魚問屋との取引きばかりでなく、丹生郡南部や南条郡の浦々とも直接取引関係を持っていた。寛永二年四月、南条郡河野浦と赤萩村が舟寄山の利用をめぐって争った時、仲裁を務めたのが福井庄魚町の二人の魚屋であり、慶安三年(一六五〇)七月、丹生郡宿・新保両浦の網場争論の仲介役をとったのも、同じく福井の肴町の六人の魚屋であった。このことは、早くも近世初頭には福井町の魚問屋と浦方が生産・販売・金融の諸機能を通じて、一体不可分の関係にあったことを意味する。
写真45 福井城下の魚町(「北庄四ツ割図」)

写真45 福井城下の魚町(「北庄四ツ割図」)





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