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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      敦賀浮買座の廃止
 慶長七年(一六〇二)の「若狭国浦々漁師船取調帳」(桑村文書資9)によると、小浜町に三人乗りの「追掛舟」三艘があったことが記されている。この舟は魚問屋や仲買人の持舟で、海上の漁船や浦方から生魚を直接買い求めることを許された町方の商舟である。この舟を敦賀町では「浮買(請買)舟」といい、その舟持仲間は「浮買座」を結成していた。
 浮買座は、中世以来の伝統を持つ「舟座」の一つである川舟座から派生したもので、正保元年(一六四四)には成立していた(道川文書資8)。寛文六年(一六六六)の問屋口銭の規定では、浮買座の生魚口銭は四歩とされ、売問屋・買問屋が各々二歩ずつを取った。漁師町の生魚口銭は売人・買人の相対と定められ、売主が口銭のすべてを負担した(「寛文雑記」)。なお、生魚の問屋売口銭は小浜藩領一円に、小浜・敦賀・高浜の三か町ともに四歩と決められていた(市場仲買文書)。
 元禄四年に敦賀西浦一〇か浦の庄屋が連署して、敦賀町での生魚の自由販売の許可を役所に求めた。これは三人の浮買座人が浮買舟を一艘だけ仕立てて、各々一人ずつの手代三人を乗せ、浦方に出向き魚値段を「下直」に立てることを企てたことに端を発していた。浮買座の遣方に対抗して、浦方は「舟江敷積之塩魚」や「桶滴塩物」仕立ての「塩魚」にして敦賀町へ持ち込んだが、浮買座はこの「塩魚」を押さえ取っていたのである(石井左近家文書)。
 なお、魚商人には「陸商人」と呼ばれた仲買商人がおり、大網漁で大漁の場合など、彼等も浦方に出向いて魚買いをした。しかし、それは浮買座の立会いのもとでなされ、買取りの生魚は必ず塩を打ち塩魚として町方に運ぶ決まりとなっていた(石井左近家文書)。
 寛保二年(一七四二)十月「魚売勝手次第」の許可がようやく西浦におりた(山本宗右衛門家文書 資8)。不漁が続くなか、仲買商人と浮買座人のいずれも浦方に来ず、浦方は外の買手を求めて六歩口銭を支払う事態に陥っていた。西浦七か浦の網浦が、魚売勝手・年賦御救金・網仕入銀借入の三つのうちいずれか一つの実現を願い出た結果、役所はこのうち「生魚勝手売り」を許可してきた。元禄四年に廃止を願い出てから半世紀後にようやく浦方の願いが実現したのである。
 先述のとおり、浮買座廃止の願いは敦賀郡の浦々だけでなく、越前四八か浦(南条郡以北)の要求でもあった。浮買座の生魚買付けの特権を否定することで、かつて越前四八か浦が主張したように、越前若狭のみならず諸国から生魚や、よりいっそう多くの四十物が敦賀湊に入荷し、敦賀湊が繁昌することの期待をかけた上での裁定であった。西浦の要求は越前の浦々を初めとする日本海の浦方の支援によって実現したのであり、その背景には北国諸浦の急速な漁業技術の向上があった。



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