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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      若狭早瀬浦の仲買と背持
写真44 いただき(「小浜絵図屏風」)

写真44 いただき(「小浜絵図屏風」)

 寛政十一年から熊川宿で背持荷に対して、「月番切手」制が始められ、翌十二年これに抗議する早瀬浦の訴状や返答書に、早瀬浦の仲買・競売・小売等の実態が報告されている(早瀬区有文書 資8)。なお、早瀬浦の村高は一七四石(「天保郷帳」)、文化四年(一八〇七)の家数は二二五軒、人数は一一三八人(「雲浜鑑」)であり、同八年の船数は廻船九艘、漁船五一艘(「船改帳」)であった。
 早瀬浦には馬がおらず、魚荷物はすべて背持で熊川宿などに運んだ。荷物が大量の場合は、近郷の久々子・松原・金山・大薮・気山の馬や背持に頼んだ。さらに、これが不都合な時は鳥浜荷問屋へ湖上輸送し、そこから十村や八村の馬で熊川へ着けたが、為登荷物(京都問屋荷)と小売荷・競荷には荷造りの方法に違いがあった。
 早瀬浦には漁師仕込親方が一〇人おり、彼等は仕込漁師の漁獲物を雇い人足に運ばせた。仲買は以前から四、五〇人おり、親方の支配を受けない独立した漁師から競買し、遠くは美濃・尾張まで「担歩行」(背持)で売りに出掛けた。町売り・店売りでの競売をする仲買人は三〇人ほどいたが、とくに仲買人の株はなく、仲買が漁師をしたり、漁師が仲買になったりすることがあった。
 魚荷物は年間三千から五、六千箇になり、その七、八割は熊川・佐田両宿の継荷物で、競売・小売荷物は二、三割ほどであった。熊川宿継荷物は京都・西近江方面に行き、佐田継荷物は敦賀を経て東近江・美濃・尾張行の荷物となった。
 熊川の宿継とはならない「通り荷」について、熊川宿から文化三年より煎餅篭状のものに荷仕立する「ふらふら荷」を申し付けられ、五五人の早瀬浦の仲買競売・小売人が連署してこれに抗議した。従来の「担ひ荷」は「小篭三ツ入箱付荷」であり、これに戻すよう熊川役所へ願い出ている。ふらふら荷は二、三貫目ほどであるのに対して、担い荷は七、八貫目から一二、三貫目であった。競売・小売は二〇年以前までは早瀬浦だけのものであったが、一四、五年以来他浦・他村の稼人が現れ増加した。背持は男は京・大津、美濃・尾張の他国行きで、女は郡内と近隣と遠敷・敦賀郡に「売歩行」するのが普通であった(早瀬区有文書 資8)。
 小浜城下の西津漁師町と同様、若狭三方郡の地においても漁師の女房や娘たちが魚介類の販売等にも大きな役割を果たしていたことがわかる。



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