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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      熊川宿駅と魚為登荷
 熊川宿は若狭最大の宿駅で、小浜・今津間の九里半越えの拠点として近世初頭に若江国境近くに置かれた。また、陸上交通の主役である馬借の元締めの馬借頭は、小浜町の窪田手間助が務めていた。
 「背持」は「背負」または「担き」とも呼ばれ、馬借の補助的役割を担うものであった。小浜の背持は、米穀や水産加工品の四十物など種々の荷を背負ったが、三方郡の早瀬・日向両浦の背持は魚荷がそのほとんどすべてであった。三方郡のうち常神半島の西側に位置する西浦組に属する六ケ浦の魚荷物は、塩坂越浦から海山に届けられ、そこから湖上輸送で鳥浜の魚問屋に運ばれ、さらに問屋荷として、馬や背持によって熊川宿に登せた。
 三方郡西郷組に属する早瀬・日向の両浦には魚問屋がなく、仲買商人や小売商人が雇い人足や自分荷として、「背負荷」で熊川宿や七里半越えの越前道口駅へ佐田継ぎで運んだ。寛延三年(一七五〇)日向・早瀬両浦からの上方行きの「背負魚荷物」が熊川宿で止められる事件が発生し、同じことが宝暦六年にも再発した。増大する背持荷への宿駅方の対応であった。宝暦十一年十一月、京都魚問屋の店掛け荷物はすべて熊川宿駅問屋継荷とし、競売荷は従来どおり勝手次第とする藩の裁許がおりた(早瀬区有文書 資8)。なお、小浜町では寛政四年(一七九二)から増大する背持に「背持札」が発行され、馬借頭からその業務が認知された。寛政期には、「近来ハ中郡辺(遠敷)其外所々ニせり売・小売之類大勢出来仕候」(同前)とあるごとく、在郷に背持稼ぎが急増したようである。



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