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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      西津漁師町と小浜魚問屋
写真43 西津の漁師町(「小浜絵図屏風」)

写真43 西津の漁師町(「小浜絵図屏風」)

 小浜魚市場には問屋・仲買・小売の三種の商人がおり、漁師の店売り用の生魚はすべて問屋に売られ、さらに問屋から仲買へ、仲買から小売へと販売するようルートが定められていた。問屋から地元漁師に支払われる代金の一割が、市場口銭として差し引かれ、問屋と仲買が四歩と六歩に分配する仕組みとなっていた。また、漁師と魚問屋の決裁は銭勘定であったのに対して、問屋と仲買・小売商とは銀勘定であった(市場仲買文書)。
 元禄八年幕府が金銀の改鋳を行って、銭と銀の交換比率(銭相)が変わり、翌年漁師と小浜魚問屋は魚代金と口銭の支払いをめぐって争論となった。漁師側は、問屋側への対抗策として、三か年間西津に店を出し、小浜市場への生魚の出荷を差し止めた(市場仲買文書)。その後も、享保十年(一七二五)には問屋口銭と銭相をめぐって再び争い、また明和七年(一七七〇)には西津三か浦の一つである小松原の沖鯖問屋と小浜魚問屋との間に鯖荷の取扱い方で争論が起きている(幸田庄一郎家文書)。
 文政五年(一八二二)三小松原が小浜魚問屋への生魚の出荷を差し止める事件が再発し、翌六年十月まで続いた。西津漁師町が小浜魚問屋の四歩口銭を三歩に引き下げ、四人の仲買人を新たに問屋に取り立てるよう藩側に要求した。藩は八人の仲買や市場四ケ町の宿老に仮問屋を命じるなどしてこの事態を凌ぎ、西津・小浜の有力者を仲人に立てようやく両者の内済が成立し、生魚の取扱いは元の小浜七問屋の手に戻った(幸田庄一郎家文書)。漁師と問屋は、嘉永五年(一八五二)にも代銭の支払いや魚荷の取扱いをめぐって争論を起している。なお、西津漁師町から小浜魚問屋に魚荷を運び、代銭を受け取ったのは漁師の女房と娘たちであった(市場仲買文書)。



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