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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    二 販路の拡大
      山家の魚食習慣
 若狭の近世宿駅制度は、古代以来の伝統を受け継いで近世初頭に整備され、浦々で捕獲された魚介類の多くが遠敷郡熊川宿を通って、近江・京などへ運送されていった。
 寛永十七年(一六四〇)や天和三年(一六八三)の「小浜町家職分け」に、魚屋・四十物屋・ザルフリ・背負など魚商・運送の関係業者の業種と人数が書き上げられており、すでに十七世紀中・後期に小浜町の商業・輸送機関が整備されたことが知られる(『拾椎雑話』)。
 しかし、多数の背持・棒手振が本格的に活躍するのは、江戸中・後期以後のことである。小浜の市場仲買文書に、
 
名田庄、丹後辺之在も前々より魚喰候事次第ニ多相成候由、元禄之比始て弘ク揃、宝暦之米下値之比より益弘まり、安永ニ世上益ゆるみ候ニ付、近年ハ丹波も生魚喰覚、名田庄も無塩之賞味候様ニ成候、
とあるように、城下町で武士から町人に普及した魚食文化が、元禄頃より若狭・丹後の在郷にも広がり始め、宝暦期には一段と普及し、十八世紀後半には丹波や名田庄の山家にも生魚(無塩)を食する習慣が定着していった。こうした食習慣の社会的変化が、鰯などの肥物の農村需要の増大と共に、干物・塩物・生物等広く魚介類一般の需要の拡大を促し、これにかかわる魚仲買人や背持・笊振りを在郷に広範に出現させたのである。



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