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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    一 漁業技術の発展
      他国出稼
 近世の若越の潜水漁業は、若狭三方郡の日向浦、越前坂井郡安島浦と丹生郡海浦の三か浦が盛んであった。中でも海浦には女の「海女」と男の「海士」が多数おり、女は地海で天草や雲丹を採り、男は近隣での請海のほか、遠く西は丹後・隠岐から東は能登にまで出漁(出稼)をしていた。
写真42 越前海膽(『日本山海名産図会』)

写真42 越前海膽(『日本山海名産図会』)

 海浦の海士たちは、文政十年に能登の羽咋郡千ノ浦・赤崎・前波、鳳至郡黒島・鹿磯の五か浦で、五、六年ぶりに請海を再開し鮑漁をした。この年の千ノ浦の請料は銀二〇〇匁であった。それ以前の五、六年間は半島先端の珠洲郡三崎浦や鳳至郡真浦で稼いでいたが、輪島海女の稼ぎの支障になるからと、撤退を余儀なくされ、元の口能登の五か浦に戻ってきていた。この五か浦の請海はそれまで五〇年間継続していたという。能登海女が五、六尋潜りであったのに対し、越前海士は倍以上の一四、五尋も潜ったという。嘉永六年の出稼海士は一三人で、六月から秋彼岸まで稼ぎ続けた。採った鮑のすべてが、加賀宮腰湊に揚げられ、そこの魚問屋からさらに金沢城下の魚問屋に送られた。越前海士は、輪島海女と並んであたかも加賀藩の御用海士のような役割を果たしていたことになる(中條茂雄家文書)。
 また、すでに近世初期に能登に鯖釣りに出漁していた若狭の釣漁師は、中期頃から西国・山陰に漁場を求めだした。元禄十二年六月、三方郡神子浦の五人乗りの・釣り船が、出漁先の隠岐浦郷の外海で強風にあい二人の死人を出した。もちろん、神子浦から一艘だけが出漁したわけではなく、隣浦の常神からも幾艘もの船が組んで出漁していた。享保十一年にも因幡国に出漁し、岩本浦沖で冬二月難風による破船で六人乗りの神子船の水主全員が死亡しており、彼らは夏には隠岐国で鯖釣漁をしていた(大音正和家文書 資8)。元禄・享保期に常神半島の西浦の釣漁師が自国の沖漁のみならず、遠く山陰の海にまで出漁していたのである。
 なお、若越の漁法について寛政十年に発刊された『日本山海名産図会』には、若狭の「若狭鰈」「塩蔵風乾」の項と「若狭鰈網」「若狭蒸鰈制」の二葉の図があり、越前には「海膽」の項と「越前海膽」の図がある。しかし、若狭に鰈とりの「打瀬網」が曳かれた史料はない。また、越前ウニに関する「漁捕ハ 海人干潟に出で岩間にもとめ」との記述と、その絵にある漁法はない。越前では干満の差は数十センチメートルしかなく、したがって干潟はできないので、ウニは海女が潜水で捕獲するのである。『日本山海名産図会』に掲載される若越の二つの漁法は、共に現地での写生ではなく、太平洋や瀬戸内海など他所の漁撈風景を写したものであろう。



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