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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    一 漁業技術の発展
      手繰網の普及
 慶長頃に始まり、寛文期に大きく発展をみせた敦賀両浜町の沖手繰網漁の若狭湾内における独占的操業は、元禄期に破られることになる。元禄十一年二月、「両浜かれ(鰈)引仲間」は、「海上ニ而他国船ニ行当リ、如何様之出入出来候共、両浜かれ引船中寄合相談可仕候」という内容の請書を両町の肝煎・鰈引船中へ入れている(港町漁家組合文書)。出入の対象は、若狭湾での若越のこれまでの沖延縄漁の他に新たに沖手繰網漁(鰈引)がその対象になり始めていた。
写真41 若狭鰈網(『日本山海名産図会』)

写真41 若狭鰈網(『日本山海名産図会』)

 元禄八年六月、越前丹生郡の幕府領厨浦が「新法之手繰網」を曳いて、幕府代官所より差し止められた(木下伝右衛門家文書 資5)。福井・大野両藩領を含む下海から高佐に至る丹生郡南部の一〇か浦が、釣漁(延縄漁)の妨げになると差止めを願い出ていたからである。この連判状は、同時に敦賀手繰網漁の南条郡以北の越前海での操業を実力で阻止することも約定している。
 元禄十二年には、越前の南条郡甲楽城・糠と丹生郡高佐・厨・玉川・左右・居倉・蒲生の八か浦、若狭の三方郡早瀬・常神と遠敷郡田烏・小松原の四か浦が、近年沖延縄漁をやめて沖手繰網による鰈引漁を行っているとある(「川向両浜・立石浦手繰網差止出入ニ付立石浦返答書」刀根秋男文書)。このように元禄期には、若越一帯に磯の「大敷網漁」と沖の「手繰網漁」が広く普及していたことが知られる。
 その後、正徳二年(一七一二)正月厨浦は「つの字鮫」の延縄漁の不漁を理由に、先年禁止された手繰網漁を再開していた。北隣りの大野藩領二か浦と福井藩領四か浦の計六か浦がこれに抗議したが、このうち大野藩領の小樟・大樟の両浦は年末に訴訟の浦々から脱落し、自らも手繰網漁を始めることにした。実際に二年後から操業を開始している。こうした経過をたどって、丹生郡内に手繰網漁が認められるようになった(木下伝右衛門家文書 資5)。
 なお、この手繰網漁については、弘化二年(一八四五)「西浦手繰網差留ニ付願書」には、「沖中江出、碇ニて船を留メ置候而引候網を揖手引と唱来り申候」と説明されている(港町漁家組合文書)。



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