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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    一 漁業技術の発展
      越前の大敷網漁
 天正十二年(一五八四)には南条郡の池ノ大良・大谷・糠の三か浦が「網手米」を納入しており、また丹生郡南部の道口・厨・茂原の三か浦も、慶長(一五九六〜一六一五)期に大網役(米・銀)を貢納していた(宮川源右ヱ門家文書 資6、青木与右衛門家文書 資5)。このことから、越前南部の丹生・南条の両郡にも近世初頭に広く大網漁がなされていたことがわかる。また、丹生郡小樟と新保の両浦は、慶長十五年に大網場の境界争いを起こしており、この両浦でも大網漁の歴史は近世初頭まで遡ることができる。

表67 丹生郡四か浦・西方浦、六か浦の大網漁関係年表

表67 丹生郡四か浦・西方浦、六か浦の大網漁関係年表

 寛政五年(一七九三)三月大野藩領小樟浦が、これまで永らく中絶していた大網漁を再開したため、境界をめぐって福井藩領新保浦と争論になった。今度は、藩域の違いから江戸の幕府裁定に持ち込まれ、ようやく同九年に解決をみた。この争論の史料から当時の大網経営について、次のようなことがわかる。(1)小樟の大網の仕立金は自前ではなく他借で、(2)新保の大網の漁獲高は年一五〇両、仕立金は一〇〇両(銀六貫目)ほどであり、(3)漁期は春三月より夏七月までであった。なお、小樟は二統の大網を入れていたが、大網の水主は南条郡の糠・甲楽城の両浦からの雇水主であった(小樟区有文書 資5)。
 先にみた若狭三方郡早瀬浦に持ち込まれた延享二年の「越前風両口網」も南条郡糠・甲楽城系の大網であった。したがって、この糠・甲楽城両浦が江戸時代の後期、若狭湾内で先進的な「網浦」であったことがわかる。
 しかし、丹生郡北部、越前岬以北の若狭湾の外に位置する小丹生浦が、元禄十二年三月に導入した大網は、能登珠洲郡藤波浦からの能登式大網であった。魚見役には藤波浦の万右衛門が給金二両三分と銀七匁五分に賄付きで雇われている。この大網の規模は、「はへのう(延縄)ふじ(藤)綱」長さ二七〇尋、張きり網二七〇尋、海底深さ二七尋、土俵一七〇俵などであった。大網の仕立銀は一貫八九四匁四分(金三一両余)であったが、小丹生浦は福井藩からの拝借米四五俵(銀一貫〇四八匁五分)でその大半を賄っており、ここでは三国や福井の商人資本の導入はみられなかった。
 この元禄期に越前の浦々に新型の大網が広く普及していたことを示す事件が起った。元禄九年五月、丹生郡左右浦と大樟浦の船が、「桶漬、納屋積の塩肴、此外塩鰯の俵物」のいわゆる四十物荷を積んで敦賀湊へ入り、船宿越前屋に荷揚げしたところを、敦賀浮買座商人に「生肴」と見なされ、その荷物と船を取り押さえられた。丹生郡の両浦方は、これを敦賀役所に訴えると共に、塩魚の外に「生肴之自由売買」をも願い出た。吟味の結果、塩魚の売買は「勝手次第」と認められ、この裁定の内容は、敦賀町年寄から敦賀町の納屋衆一四人、中買売屋・買屋二四人、敦賀郡西浦の一〇か浦庄屋と浮買座商人三人にも知らされた。丹生郡の両浦は訴状の中で、「此方以前よりは大網多く立申候」と丹生郡の大網漁の盛行ぶりを述べるとともに、「右御訴訟(生肴の勝手売買)相叶申候は、越前四十九浦(敦賀を除く)は不及申、諸方より右之肴御当所へ持参可仕候」と、越前の諸浦から敦賀湊へ生魚荷の直接入津を強く願っていた(佐藤徳次郎家文書)。その背景には越前以北の日本海の漁業、すなわち大網漁・沖手繰漁・沖延縄漁・外字漬木漁などの発展があったことが知られている。



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