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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    一 漁業技術の発展
      若狭の大敷網漁
 若狭・越前敦賀の漁業が先進性を維持できたのは、近世前期の寛文(一六六一〜七三)頃までのことで、中期以降は日本海一帯の漁業水準の向上と、蝦夷地の鰊漁などの出現で、その地位は相対的に低下することになった。
 元禄(一六八八〜一七〇四)期の若狭には、新式の大網がかなり広範に導入されていたようである。そのことは、小浜湾内の小浦であった遠敷郡仏谷浦の庄屋大橋脇左衛門が、元禄三年五月に、旧来の網と比較して新式の網梳きの寸法を記した「大網すき用次第」を後世の浦人のために書き残していることからもわかる(大橋脇左衛門家文書 資9)。
 また、三方郡早瀬浦にも、当時の大網の規模と型がわかる貞享元年(一六八四)の「鎌(竈)ケ崎大網」と元禄五年の「甲ケ崎大網」の二葉の「大網立用」の図がある(上野山九十九家文書)。後者の大網は、囲いの間(垣網)三〇〇尋、胴の間の網丈一一五尋、内張が四〇尋あり、敷網は、荒手一二〇掛(旧一〇七)、一尺二寸目四〇掛(旧一五〇)、四寸目二四〇掛(旧二五〇)、細目三七〇掛(旧三九〇)、織手一五尋などの新旧の寸法が記入されている。竈ケ崎の大網は二十数年間入れられていたが、不漁のためその後中絶され、享保十七年(一七三二)より三か年間再興された。この時の大網の仕入銀は、熊川の問屋泉屋から借り入れたものであったが、同十九年には泉屋からの借入れができず、同町の菱屋三郎兵衛に替えたがうまくいかなかった(早瀬区有文書 資8)。町方の商人資本の導入が浦方の網立ての決め手となったが、不漁時に返済が滞ったりすることがあって、常に資本の導入がうまくいくとは限らなかった。
 延享二年(一七四五)三月早瀬浦は、これまで中絶していた竈ケ崎大網場を越前南条郡甲楽城浦の六左衛門に三か年間の卸網をした。六左衛門は一三人の網水主を使う新式の「越前風之両口網」を立てた。この網には、さらに磯の垣網に「小網」が添えられ鰡などが獲れる仕組みになっていた。しかし、すぐさま隣の日向浦から「新法之網」と訴えられ、三方郡奉行が六月に下した裁定では早瀬浦が非分とされ、この新型網の使用は当年限り、翌年よりは旧式に戻すこととなった。早瀬浦の申し分の中に、「網仕立前々の網・五割方無数仕立、手廻シ軽ク、其外一切之入用等無数、勝手能御座候ニ付、網ばと申ニ相立、裏之口・魚入込申義者、曽而無御座」くとあり、この越前網が画期的な新式網であり、その優秀さが指摘されている。しかし「新儀停止之法」により、一年限りの使用となったのであった(上野山九十九家文書、早瀬区有文書 資8)。
 寛延三年(一七五〇)越前敦賀西浜町の清水五郎兵衛が、隣接する若狭三方郡丹生浦の藤明神下の大網場一側を三年切で請海をした。網入れの期間は二月から六月までの四か月、請料(島手)は年四両であった。なお、五郎兵衛は丹生浦に「指網」をも所持していた。敦賀商人の丹生浦進出は、延享四年に船屋権平・権右衛門の二人が、小舟を丹生浦の小漁師に賃借するなど、すでに行われており、こうした経緯の中での大網場の請海であった。町方の大商人が資金の融資を通じて漁業を間接支配する段階から、十八世紀後半には、敦賀町の商人が漁業経営に直接乗り出す段階に時代は進んでいたのである。
写真39 早瀬浦鎌ケ崎大網寸法図

写真39 早瀬浦鎌ケ崎大網寸法図



写真40 早源浦甲ケ崎大網寸法図

写真40 早源浦甲ケ崎大網寸法図




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