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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    三 農書の普及
      伊藤正作の廻村
 正作は小浜藩の依頼を受けて、領内の各地を廻り、農業指導に当たったが、その間の様子が、「第七番永代万記書」(清常孫兵衛家文書)天保十年の条に記されている。
 一、三方郡瓦(河原)市村宗兵衛ト申者、耕作ニ委細人ニ而御上より被仰付、何方も村々指南之ため被相廻候、当郡へは二月上旬ニ相見へ申候也、尤当組へは二月十日、川上村より高浜泊りニ相見申候、右高浜へは笠原より三松迄参候也、尤川上村より十日七ツ時ニ当村ヲ被通候也、高浜ニ而は夜ニ入而咄シ有之候也、手前ハ持病ニ而得不参候故組頭両人百姓五六人参候也、
 一、十一日二日は青ノ郷内ノ浦へ被参、十三日和田泊りニ相見申候也、和田村へは薗部より両車持迄参候由被仰付候也、
 一、右宗兵衛作方之可然ト思召候而先心見(試み)ニト思召候而、三松村へ米五拾五俵、長井村へ四拾五俵こえ(肥)手間代ニ被下候而、何分宗兵衛教之通作可申由被仰付候也、
 一、三松村は高弐百五拾石
 一、長井村は高弐百石両村共右之通り可作由被仰付也、三松村は焼土之かまほり(竈掘)其外油粕ヲ買殊之外拵申候也、
 以上のように、藩が肥料代等を援助したりもして、正作の農法を各地で実施させようとした様子がうかがえる。しかし、同年出版された「農業蒙訓」には、
 其功徳の莫大なるを知るがゆゑに、老の僻めるこゝろ(心)よりして強て村人に勧めぬれど、煩しいかな、土地と所の違ひありと言掠て稼穡の道を充塞する者も少からず。今年の取劣り何ぞ来年あらん。惜むべし悲べきの甚しきならずや
とも述べており、旧慣に馴染んで、必ずしも正作の指導に素直に従う者ばかりではなかったようである。



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