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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    三 農書の普及
      「農業蒙訓」
写真38 「農業蒙訓」

写真38 「農業蒙訓」

 「農業蒙訓」は、貫名苞(海屋)の序文と「附言農業一枚起請文」「焼土肥を用る十徳の事」「湖東児島徳重著農家業事曰」「農業蒙訓」「除蝗録ノ意」「総論」からなる。『日本農民史料聚粋』第二巻に集録されており、木版本は敦賀市の石井左近氏所蔵(石井本)と、京都大学文学部国史研究室所蔵(京大本)のものがあり、寧止園から出版されている。
 「附言農業一枚起請文」は、浄土宗の宗祖法然の著した「一枚起請文」を真似て、「夫一切農家の励ミつと(勤)むへき源といふハ、諸の作物女種を撰にあり、ねんころ(懇)に取納め、其所の地味相応をはかり、暦に対し四季々々の蒔物植物あるか中に米穀をもて最上の菩薩と崇ぬるは」で始まり、耕作の適切な管理、肥料のやり方、害虫防除の方法、焼土肥の効用、大作りはよくないこと、余りは籾のままで蓄え飢饉に備えること等を述べている。
 「焼土肥を用る十徳の事」では、薮連立著『農人袋』から学んだ焼土肥の効用を一〇か条にわたって述べている。焼土肥は赤土と柴草の灰と下肥の混じりあったものである。山地の赤土を用い、四本柱を立てて壁を塗り、大きな竈を作って、その中に柴草と土を交互に何層も入れ下から焚き、真っ赤に焼けた土と灰を取り出し、下肥をかけて混ぜて作った。これが、田植えの際の基肥としてもよいし、田植え後の追肥としてもよいと述べている。また、焼土肥で育てた稲には虫も付かず、稲も丈夫で、粃は少なく、籾摺の際に砕けることも少なく、炊いた時に量が増え、取れた米は翌年の夏が過ぎても虫が付かないと述べている。
 「湖東児島徳重著農家業事曰」と「除蝗録ノ意」は、それぞれ『農稼業事』と『除蝗録』からの引用である。「湖東児島徳重著農家業事曰」では、『農稼業事』「浜田の事」の一部を引用し、自らやってみて大いに効果のあったことを述べている。すなわち、水込・水押などの湿地帯で肥沃な田地では稲が繁茂し蒸せるので、秋に田へ何度も分け入って風を通すことである。「除蝗録ノ意」では、『除蝗録』を参考にして、蝗の防除法を述べている。ここでは鯨油の効用を伝えながらも、若狭・越前で多く産する油桐の効用を力説している。
 「農業蒙訓」は、田辺で学んだという稲作・麦作に関する記述が大部分を占めるが、それ以外に『農業要集』(宮負定雄著)や『農人袋』を参考にした記述もある。里芋・茸藷・銀杏芋・煙草・杉・桧・楮の作り方は前者を参考にしたものである。『農人袋』からは、焼土肥の作り方・利用法や、種籾を早・中・晩の三期に分けて水につける方法等を紹介している。さらに「農業蒙訓」の最後には、越前の山村でやっているという、毛髪を焼いてその臭気で鳥獣を撃退する方法や敦賀の老農夫の試みと結論を伝えている。それは、自宅の南の窓で、春分・夏至・秋分・冬至の正午の日陰の長さを計ったところ、同時期・同時刻の日陰が近年長くなっており、太陽が南に傾き寒冷化してきたというのであり、そのため晩稲は収益が少ないという考えである。このことが事実であったかどうかは別として、こうした観察や実験を大切にしようとする姿勢は随所にみられるものである。
 「農業蒙訓」に記された稲や麦の栽培に関する内容は次のようなものである。
 (1)まず女穂よりとった女種を選び、種籾を苗代に蒔く前、水につける。早稲・中稲・晩稲それぞれに、池につける日数、池から上げて苗代に蒔くまでの日数、苗代に置く日数の違い。苗代に種籾を蒔く時刻は、山間や日陰で、土がしまり固まっているところでは午前十一時頃がよく、粘り気の少ない田地ならば午後三時頃がよい。苗代には基肥の外、籾をまいた後に三度肥しをやる。
 (2)良田・中田・山田で、種籾の量、株と株との間隔、一株に植える苗の本数をそれぞれ違える。田植えの後三〇日の間に四回草取りをし、最初の草取りの時に熊手で中打する。
 (3)裏作に麦や菜種を作る田は、夏の土用の後半水を落として干田とする。薄蒔の苗が優れている。稲穂が出ると田に水を入れて稲穂を大切に育てる。稲穂に花が咲いている期間中に、「花乾」といって一昼夜から二昼夜田を乾燥させると、米質がよく、翌年の夏過ぎにも虫が付かない。
 (4)田へ麦を作る時、前年溝に入れておいた山草を中心として翌年の畝を作るとよい。麦種は種類が多いので、土地に応じた物を選び、一反当たり六升蒔くとよい。麦の中打は冬二回、春二回、麦がのびてから一回、穂が出てから一回行い、肥しは冬二、三回、春二、三回やるとよい。一〇反乾田を持つ人でも、すべて麦を作るようなことをせず、三反ほど作って手入れをよくすると、一〇石から一二石の麦がとれる。春の雪が雨で解ける時はよいが、天気がよくて太陽熱で解ける時は麦が腐る時があるので、溝に水を入れ、畝の上の雪を溝に落として解かすとよい。雪を消した後の肥しは薄いものがよい。
 (5)稲を刈った後の水田は、稲株からひこばえが生え、田の養分がなくなるので、すぐに株を打ち返し、春になったらその株を鎌で十文字に切るとよい。このように、人力を多く用い、地質や天候に応じたきめこまかな農法を伝えている。
 「総論」では、百姓の心得を述べ、農業に専念し、様々に工夫を凝らしながら増収を上げることの喜びを説き、日用稼ぎなどで農業をおざなりにする当時の風潮を諫めている。
 以上、正作の著述は、当時の新しい学説や各地の百姓の優れた実践の紹介が多く、正作が独自にあみだした農法はほとんどない。しかし、様々な農書や百姓の実践を見聞し、その中から若狭の地に適した農法を選び、また、これらについて自ら実践し、成果を上げたことに限って述べており、他人の説の紹介といっても単なる孫引きに終わらず、それを補足しながら述べている。



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