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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    三 農書の普及
      伊藤正作と農書
写真37 「耕作早指南種稽歌」

写真37 「耕作早指南種稽歌」

 若狭では、享保三年に小浜藩が行った農況調査や、「作り附諸色覚帳」「稲刈数諸色覚帳」などの農事覚の類はあるが、農書としては伊藤正作著の「農業蒙訓」「耕作早指南種稽歌」「耕作いろは歌」の三つと、遠敷郡下田村所平の著した農書に限られる。
 伊藤正作は、安永八年(一七七九)三方郡河原市村で生まれた。伊藤家は代々宗兵衛を称し村内有数の地主であるとともに、祖父道信は医者、父信安は三宅嘯山の門弟となり和歌や俳句にすぐれ、母政は近隣の大社である上瀬社から嫁いでおり、正作は早くから儒学・国学・医学等の教養を身につけたと思われる。正作は、文化元年に二六才で河原市村庄屋となり、翌年小浜藩医伊藤圭斎に医学を学んだ。また、同六年から天保七年の間に、畿内や江戸、山陰・山陽・南海道、丹後田辺などを旅したことがあり、各地の農法を学んだ。
 農書を書くきっかけは、天保七年に丹後田辺で非常に優れた農法を見聞したことと、同年の飢饉に際しても、河原市村では正作の様々な経験や工夫が効を奏して災害を凌げたことである。同八年、正作は記憶しやすい「耕作いろは歌」を作って近隣に伝えるとともに、「耕作早指南種稽歌」を発刊した。同十年には小浜藩の命を受けて領内を廻り、耕作の指導を行うとともに、「耕作早指南種稽歌」に書き漏らしたことや、歌では言い尽くせないことを補って「農業蒙訓」を発刊した。。
写真36 「耕作いろは歌」(末尾)

写真36 「耕作いろは歌」(末尾)

 「耕作いろは歌」は、七・七・七・五の四句からなる都々逸の形式で農耕で心掛けるべき要点を述べ、
いつもこゝらにや よい米メやとれぬ 埒も通らぬ こま(細)かうゑ(稲と稲との間隔を明ける事を説く)ろくな作りを まへ(前) からせねば とろとおもふて 世話もせぬ(作物を植える前、植えた後の細々した世話の必要を説く)
に始まり、
せま(狭)き苗代 あつまき(厚蒔) 苗ハ うゑ(植) て廿日も そのまゝじや(苗代に種籾を多く蒔くことの非を説く)すて(捨)た田地も 手入がとゝきや 米もあかるし 直もあがる(田地の手入れの重要さを説く)
に終わるいろは四七首と、最後に、
京のせんしやう なら(習)いにやるな はてハ太こ(鼓)の皮となる(贅沢を諫める)
を加えて四八首からなるもので、三方郡上野の野崎宇左衛門家に野崎将澄の書写したものが現存する。
 「耕作早指南種稽歌」は、序文と五・七・五・七・七の和歌の形式で農耕の要点を述べた七〇首の歌からなる。このうち、稲作と麦作に関するものが合わせて四四首で圧倒的に多く、その他農業経営全般についての百姓の心得一五首、油桐三首、大根二首、茄子・黍・粟・麻が各一首ずつと、肥しに関するもの、山畑の雉の威しに関するもの、綿はこの地方では作らないので省くというもの各一首がある。
 序文では、天保七年丹後田辺の庄屋宅で、三〇年来増収を続けているこの地方の農法を学び非常に感銘したこと、田辺の百姓がやっているように、土地や天候等に細々と気を配り人力を多く用いれば増収も得られ、去年のような凶作にも堪えられると述べている。また、本文中の補記として、播種前に籾を水につける作業、播種の作業、田植えの作業、田植えの後一定期間をおいて肥しをやる作業などを、早稲・中稲・晩稲それぞれ別々に行ったところ未曾有の出来栄えとなったことや、田植えの一五日前に肥しをやり、その後三日間隔で二度肥しをやるとよいことなどが記されている。本文の最後には、田辺で田畑の中打に用いられている熊手の図が記されている(伊藤宗兵衛家文書、村松喜太夫家文書)



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