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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    三 農書の普及
      福井藩と『農稼業事』
 江戸時代後期の農書としては、大蔵永常が著した『広益国産考』『綿圃要務』『農具便利論』『除蝗録』などが、先進地の商業的農業を紹介して大きな影響を与えた。ほぼ同じ時期に児島徳重により著された『農稼業事』も数多くの版を重ね、多くの影響を与えた。この書は、自序と稲作について記された上巻と、「農人常々心得の事」「懸ほしの弁」という二つの上巻付録、草綿について記された中巻と中巻付録からなっている。上中二巻で終わっており、内容は上巻の稲作と中巻の綿作に限られている。
 上巻は寛政五年(一七九三)、上巻付録「懸ほしの弁」は文化五年、中巻付録は同十一年にそれぞれ完結したようであり、近江湖東の住人児島如水の著書を孫の徳重が校訂、補筆して出版したものである。稲や綿の雌雄を図入りで区別し、選種の重要性を理論的に述べ、病虫害の駆除法や稲の掛干し法の奨励など、当時にあってはきわめて高水準で実践的な農書であり、広く普及したようである。
写真34 「農稼業事抜書」(部分

写真34 「農稼業事抜書」(部分)

 福井藩でもこの書に着目し、この書の必要な部分を抜き出し、領内に配って百姓の啓発を行っている。文化十四年には各村へ「農稼業事抜書帳」が一冊ずつ与えられている。足羽郡合谷村の大庄屋片岡五郎兵衛組では、組下三四か村の庄屋・長百姓が、大庄屋から「農稼業事抜書帳」の内容を詳細に読み聞かされた後、それぞれの村で百姓が寄り合い、農業に励むように話合いをすすめることを請負っている(片岡五郎兵衛家文書)。また、これは大庄屋の分は配布されなかったとみえて、大庄屋の手元にも控えを一冊ずつ欲しいという願書が出されている(松嶋一男家文書)。そして、この時のものと思われる「農稼業事抜書写」が吉田郡清水村の赤井富士雄家にあり、一〇枚からなる冊子に『農稼業事』上巻から抜き書きした稲作についての要点が記されている。
 (1)穂先が二筋同じように揃っているのが雌穂で、一筋だけのものが雄穂であり、種籾には雌穂を選び、これらの雌穂の先端部分四割を種籾にするとよい。また、これらの稲は普通の稲とは一〇日も遅くよく熟してから刈り取るとよい。
 (2)苗代に種籾を蒔くのは昼過ぎだと種籾が動かなくてよい。
 (3)苗代への肥しのやり方は、最初に耕す時に三割、種籾を蒔く二、三日前に三割、苗を握った時に葉先が見えるくらいに成長した時に二割、残りの二割は田植えの五日から七日前にやるとよい。
 (4)田植えの際には、よく土をこなし、肥しもむらがないようによく交ぜるとよい。
 (5)蕎麦藁がいもちや蝗や万の虫に効用のあること。虫には栴檀の葉もよく、それでも駄目な時には鯨油がよい。
 (6)種籾は自分の村で作ったものはよくない。
 (7)毎年同じ種類の稲を植えることはよくない。
 (8)よく干さずに蓄えた種籾を蒔くと白穂または「きよろ」ができることがある。
 以上の様な内容であり、『農稼業事』中から必要なところを抜粋したり要約したものである。ただし、木実油が害虫防除にきわめてよいといった記載は『農稼業事』にはない。おそらく、越前では木実油が多く取れ、この効能が知られていたため補記されたものであろう。
写真35 「農稼業事抜書中之巻」(部分)

写真35 「農稼業事抜書中之巻」(部分)

 文政二年(一八一九)八月には、大庄屋片岡五郎兵衛組下の三五か村に「農稼業事抜書帳中ノ巻」が、組下の一五人の「縁上御免」の百姓には、これとともに上ノ巻と思われる「農稼業事抜書」が与えられている。また、同三年四月には「農稼業事抜書帳中ノ巻」中の挿絵「二葉雌雄之図」と、説明文を抜粋した「棉苗雌雄見分ケ書」一枚ずつが、三五か村と一五人の「縁上御免」の百姓に与えられている(片岡五郎兵衛家文書)。
 文政二年のものと思われる「農稼業事抜書帳中ノ巻」には、綿の雄種(苗)・雌種の見分けかた、綿の早生・中生・晩生の区別、種籾を蒔く時期ならびに蒔き方、苗の間引きの仕方、肥しの用い方、芯の留め方、「蟻まき」「なめり」等の害虫や「いもち(稲熱)」「ぼろ」などの病の除去法などが要約されており、雄木・雌木を描いた挿絵も入っている。そして最後に、「附り」として「菜種の事」が付記されており、菜種も雌種を選んで雌木を育てること、菜の花が散った後に茎の先端を留めると実がよくできることなどが記されている(杉田定一文書)。この菜種の記載は原本にはなく、この抜書配布に当たって原本以外より仕入れた知識が付記されたものであろう。寛政二年、福井藩は領内で作られた菜種を買い占めて専売を行ったが、その後も重要な国産品として増産が図られたのであろう。また、今立郡押田村の宇野名左衛門家の「棉苗雌雄の見分様」一枚は、文政三年に配付されたものである(写真29)。
 この他、坂井郡波寄村の杉田定一文書の中には、下総松沢村の百姓である宮負定雄著「草木撰種録 男女之図」がある。これは一枚の紙に印刷されており、三十余種の農作物について、種や根・茎の形状から雄雌を区別したものである。これは文政十一年に出版されて以来、爆発的な人気を得て広がったものであり、同家でもこれを買い求めたものであろう。



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