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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    三 農書の普及
      『農業全書』の普及
 宮崎安貞が著した『農業全書』は、元禄十年(一六九七)に発刊されて以来、享保六年(一七二一)、天明七年(一七八七)、文化十二年(一八一五)とたびたび版を重ね、江戸時代中期以降の農業技術の発展に大いに貢献した。越前・若狭では江戸時代に刊行された『農業全書』を見ることはまれだが、越前で著された数少ない農書である「農事覚書」や「耕作蒔種令時録」は、いずれも『農業全書』を読んで啓発され、これが契機となって書き著されたものである。「耕作蒔種令時録」が書かれた江戸末期になれば、外にも様々な農書が著されているが、なお『農業全書』の評価は高く、地主などの中にたまたま『農業全書』一部を手に入れる者がいたという状態であったようである。
 「農事覚書」は、丹生郡天王村の天王社の神主であるとともに、神領の田一町と畑五反を管理し二六石の高をも所持した高橋勝安が寛保二年(一七四二)に書いたものである。本書の内容は序文、農業心掛覚・農作覚・農家経営覚を扱った本文、後書からなっている。
 序文・後書によれば、本書を書くにいたった動機は、勝安の父が『農業全書』の一部を買い与えたことによる。長い間読まずにいたが、最近二、三年この書を読んでみると、「心根にしミて、尊き事とおもひ(思)て、数篇よミ(読)考ゆるといへ共、其意に叶事成りかたし、只心さしの一ツを右に覚書にし」ということであり、同書のすばらしさについては、「農作を業とする家に、農業全書を所持せさるハおろか(愚)なるへし」とまで述べている。同村の有力な地主であった内藤武左衛門の勧めにより、この書を書くことを決心し、同人と検討を重ねながらこの書を完成させたようである。
 同書中の農業心掛覚には、農業全般について、農家の主人としての心得、農作業と肥料、農作業の時節・やりくり、田畑外字作の心得、種蒔の時節、撰種等が記述されている。『農業全書』の「農事総論」を参考にして記述されているが、農家の主人としての心得や田畑外字作の心得などは、『農業全書』には記載されていない。その他についても『農業全書』をそのまま引き写すというものではなく、自分自身の経験や、この地方の農法に基盤をおいて必要と思われる事項を記述している。
 次の農作覚には、稲を初めとする様々な作物について、播種やその前後の肥料等について記されている。ここで取り上げられている作物は六八種であり、当地でなくてはならないものに限っている。いたるところで『農業全書』を引用しているが、若狭や越前南部の山地に多かった「ころび」(油桐)の記載があったり、当地の農法の記載もある。田での麦作や木綿作については、この地方ではこの頃あまり作られていなかったせいか、それほど積極的には奨励していない。
 さらに、農家経営の覚では、農家の主人や奉公人の心得、農作業の進めかた、奉公人の使用法などが箇条書にされており、越前の地主経営の一端をうかがうことができる貴重な資料である(本章第二節)。
 「耕作蒔種令時録」は相馬政徳の著したもので、相馬氏の自序は嘉永五年(一八五二)、敦賀在住の乾重光からもらった序は安政三年(一八五六)、後書は文久元年(一八六一)である。序文をもらったりもしていることから、出版を考えていたものかもしれない。しかし、版本は発見されておらず、現存するのは今立郡清根村の「内藤新四郎所持」と奥書された筆写本のみである。
 本書の内容は、序・自序・本文・付録・後書に分かれており、本文は一年間の農耕の概略を記した前半部と、各作物について個別的に記述している後半部からなる。
 自序に「農業全書を拝閲し 歓喜の余り九牛の一毛を採、子孫のためにやつかれが微意を加へ左ニ記す」とあるように、この書も前書同様、多くの農書を比較検討してというものではなく、たまたま『農業全書』を読んで感銘し、それを参考にしながら、書き上げたものである。
 本文前半部は『農業全書』の「農事総論」に倣ったようにも思えるが、抜粋部分はなく記載量もはるかに少なく、筆者の経験等をもとに、この地域で年間を通して、どの時期にどのような作業を行うかについて述べている。また、それぞれの耕作の時期を太陰暦の月日を用いず、すべて二四節気で記載しているなど、工夫の跡もみられる。
 本文後半部は、稲・畑稲に始まり六〇余種について、ごく簡略に要点のみ記載されている。内容は『農業全書』からそのまま引用した部分が多いが、節気で記載していたり、選ばれている作物も越前で一般に多く作られているものに限られるなど、少々異なるところもある。
 大野郡蕨生村の「家伝永録記」(城地六右衛門家文書)も、この地方の農法を伝えるものである。江戸時代の後期から明治初年までのものと思われるが、正確な成立年代は不明である。子孫への書き置きとして自筆で書き記されている。他の文献を参考にした形跡はなく、記載内容も当地で作られている作物に限られている。間作、輪作、厭地等についてかなり詳細な記載もあり、田の裏作の麦の記載や馬を使って田をかきこなし基肥をやる方法などは、幾種類も図入りで説明している。
 この他、天候や日々の農作業などを記録した日記類は幾つか残っており、坂井郡鳴鹿山鹿村の安政三年の「天相日記」(柚木嘉夫家文書)などもその一つである。また、天保十三年(一八四二)に福井藩主松平慶永が書いている「農桑略記」も、ごく簡単にではあるが稲作の概要を述べており、藩主の稲作に対する理解を示すものである。



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