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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
     二 農具と農事暦
      農事暦と二四節気
 江戸時代の農業は、今日に比べてはるかに零細できめの細かいものであり、人手の行き届かない大作りは決して好ましいものとはされず、自家の能力より少し少なめに作り、よく手入れをして何割増しかの収穫をあげるのが優れた百姓とされていた。
 こうしたきめ細かな農法が、越前・若狭でも行われていた。その中心をなす稲作についてみていこう。江戸中期頃の幕府代官所の記録と思われる「耕作仕様大概」(木村孫右衛門家文書)をもとにし、坂井郡鳴鹿山鹿村の「天相日記」(柚木嘉夫家文書)等で補足した。
 雪に閉ざされている間、農道具の新調・修理や外字(綛)糸作り、機織りなど屋内の冬仕事に従っていた百姓も、春になり雪が消えるのを待って野良仕事を始める。
 田植えまでに行う作業としては、まず、雪が消え次第、鎌で株を二つに割る「稲株切」、それを鍬で打つ「新打」や牛馬で鋤く作業があり、その後鋤返した稲株を鎌で割る「中切」、鍬または馬鍬で土を砕く「あらかき」を行った。次に畦の裏表を削る「畦剥」を行い、その上に畦を塗った。これらの作業は春の土用までに行われた。田植え前には鋤や鍬で均す「うけすき」「うけうち」等の作業があり、種籾を選定して揃える「種揃え」は二月初午前または彼岸一〇日前に行っている。「種かし」は、種籾を彼岸中日過ぎまたはその一〇日過ぎに二〇日ほど水につけ、俵のまま上げて二、三日または四、五日干す作業であり、夜は莚に包み暖めた。その後、苗代に蒔いたが、早稲・中稲・晩稲で少しずつ時期をずらして作業が進められた。その間に畑を耕したり、瓜・胡瓜・茄子などの種を蒔いたり、麦の稲架を作って麦を刈ったり、田畑に肥しをやるなどの作業が加わった。
 これらの作業のあと、最も忙しい田植えの時期を迎えた。苗代で苗を育てる期間は三三日間ぐらいがよいとされており(この期間を苗役と称した)、半夏生を目安にして、それより四五日ないし二五日前に完了することになっていた。ただし所によりかなり違いもあり、大野辺りは遅く、半夏生より七日ないし一五日前頃までに完了する習わしであった。また、麦を刈り取った跡の田は、他の田とは一五ないし二〇日くらい遅く植えていた。
 田植え後も中耕・除草等の作業が繰り返された。田植えより五日目、七日目、一〇日目に男女が手で均す「ならし」があり、田植えより一三日ほど過ぎてから根配りのために「一番中打」を行い、二五、六日過ぎないし三〇日過ぎに「二番中打」を行った。草取りは主として女の仕事で、田植えより二〇日ほど過ぎて一番草取りを行い、その後二番草取り、三番草取りまでも行った。この間水廻りを行って水を調節したり、田畑への肥しをやるなどの作業が加わった。
 そして、早いところでは八月上旬ぐらいから早稲田の稲刈りが始まり、九月から十月上旬にかけて、中稲・晩稲の稲刈りが行われた。それに続いて扱箸や千歯扱などによる脱穀作業、杵や竿で籾の芒などを取り去る「やた落」または「やたかち」と呼ばれる作業、木臼または土臼(唐臼)等を用いる籾摺や、唐箕や箕によって籾殻や芒などを取り去ったり、千石外字等を用いて屑米を選別する作業があり、俵に詰める作業や年貢米の納入などが年内かかって行われた。ことに、年貢米や種籾の扱いについては、慎重に行われた。こうした作業の間をぬって、大麦・小麦・菜種を蒔いたり、綿・大豆・蕎麦・芋・大根などの収穫を行っていた。
 一年中休みなく、また、時節に遅れないように仕事を進めるためには、冬の間に一年間の仕事の段取りを考えておいたり、一年間の天候や農耕の次第を記した農事日記などを書き留めたりした。太陰暦の一年は、一か月が二九日と三〇日の一二か月で、三五四日となり、太陽暦の一年より約一一日短く、そのため三三か月ないし三四か月に一度ずつ閏月を入れることによって誤差を調整した。また、これを補うものとして一太陽年を二四等分した二四節気や七二等分した七二候や、彼岸(春・秋)、土用(春・夏・秋・冬)、半夏生などの雑節が用いられた。
 農作業などは太陽の運行にしたがって進められるものであり、太陰暦の月日もそれなりに農作業の目安とはなったが、二四節気や雑節も多く用いられた。啓蟄以後に山野に出て瓜・胡瓜・茄子の種を蒔く、立夏から去年の田の畦を削り、小満までに畦塗りを完了する、芒種頃から田植えを始め、半夏生までに終える、大麦は秋分より寒露までに蒔くなどである(「耕作蒔種令時録」)。



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