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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
     二 農具と農事暦
      稲架の普及
 江戸時代後期の優れた農書の一つである『農稼業事』には、稲干について次のように述べられている。
掛干とて、込所、或は深田、山中にハ自然に仕来、又まへまへ(前々)より仕来にて懸干の所もあれど、込所、深田、泥田、山中などの外は、多く懸干ハ稀にて、何国も苅日扱落し、莚にて干なり、是は損失多し、
 この他同書には懸干の効用と、田の周りに杭を打ち、それに縄を張り、途中幾つか竹で支え、この縄に稲を懸けて干すという独特の稲干の方法も伝えている。
写真33 仏谷浦稲木伐採願

写真33 仏谷浦稲木伐採願

 若狭にあっては、懸干は早くから各地で行われていたようで、懸干のための細い用材を伐採するに当たっては藩に届け出ている。遠敷郡仏谷浦では寛文七年(一六六七)以来、たびたび「稲木」「いなき木」「はさ木」「稲懸木」の伐採を願っている(大橋脇左衛門家文書)。寛文七年の場合は、伐木を願っているのは一六人で、少ない者で二本、最高は九本であり、長さ二間、周囲七、八寸の雑木合わせて八九本であった。この他、中期以降になると、稲木の伐採願は遠敷郡上根来村、大飯郡上下村、三方郡上野・新庄・黒田の三か村などでもみられる。表66にも焼失した農道具の一つとして、「稲木道具」の記載があり、一つ当たり三〇匁の値段がつけられている。おそらく挟場を作るための材料一式を指していると思われる。
 一方、越前では、稲木に関する記録はあまり多くはない。享保六年(一七二一)の「池田郷中村々明細帳」(上嶋孝治家文書)には、三五か村のうち一四か村について稲干場の記録がある。これによると、川原で干す村が七か村、このうち稲架木がある村は一か村、稲架木・榛木のない村が二か村で残り四か村は不明、川原や田で干し、稲干場・稲架木がない村が一か村、堅田畑で干す村が二か村、田ごとに干し、水田の分は堅田で干し、稲架木・榛木がある村が一か村、畑で干し、榛木が少々ある村が一か村、畑で干し、稲場・榛木がない村が一か村、山添・畑で干すのが一か村であった。山間のこの地区では、稲架木・榛木で稲架を作る村もあったが、堅田・畑・川原・山添などで、地面の上に並べて直に干す方法も多かったようである。
 この他に稲架に関する史料は、正徳四年(一七一四)丹生郡大虫村の稲干場の売渡状(竹本治左衛門家文書)、寛政二年(一七九〇)今立郡北小山村の稲架木の本数の制限に関するもの(伊吹長兵衛家文書)、文政十二年(一八二九)頃の同郡南小山村の挟場の立木に関する争論や約定の文書(三田村弥兵衛家文書)等があり、湿田などではかなり作られていたと考えてよさそうである。



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