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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
     二 農具と農事暦
      農具の改良
 江戸時代の農具の改良としては、耕耘の様々な用途に応じた鍬の分化、ことに、軽くて深耕を可能にする備中鍬の普及と、稲の収穫以後年貢納入までの作業の能率をあげる農具の登場がある。すなわち、脱穀用としてこれまでの扱箸に代わる千歯扱、籾殻を取り除く籾摺の用具として、木製の摺臼に代わる土製の唐臼、選別用具として唐箕・ゆり板・千石外字などである。
 ことに、耕耘用具では犂より鍬の分化・改良が行われた。これは、小農民の自立が進み、小規模な田畑を丁寧に耕す集約的な農法が広まってきたことに対応するものであり、荘園制下ですでに牛馬による犁耕が始まっているにもかかわらず、犁の改良は明治以降に持ち越されることになる。
 こうした農具の改良は、江戸時代中期に近畿地方を中心に起こり、その後各地に普及していったが、地域の実情に応じて、普及の仕方には違いもあったようである。
 「耕作蒔種令時録」(本節第三項)には、啓蟄の頃までの冬仕事として、次のような農具の新調や手入れが記されている。この書は『農業全書』からの引用が多いが、この記載は『農業全書』にはみられず、おそらく江戸後期に越前今立郡辺りで使用されていた農具類であろう。整理して、分類すると次のようになる。
 (1)着笠・唐蓑・蔽膝・沓・草鞋・草履・短鞋・深沓・木履・足駄・下駄・外字
 (2)手綱・挽縄・鞅・鞭・鞦・轡・羈・腹帯・障泥・力革・馬沓・牛沓
 (3)持篭・手篭・縄袋・薦・簀・縫縄・荷縄・莚・俵・苞・畚・嚢・外字・肥担桶・朸・担棒
 (4)鎌・稲刈鎌・鋤簾・鋤・鍬・馬鍬・犁・柄振・外字・钁・鉄塔・草剃・塊割・平鍬・三鍬・亀鍬・鶴嘴
 (5)唐箕・外字・連枷
 (6)鉈・銕・鉄轄・掛矢・槌・横槌・梯子・鞍掛・機篭・桑切・橇
 (1)は農作業の時、百姓が身につけるもの、(2)は牛馬に用いるもの、(3)は物を運んだり、蓄えたりする時使用するもの、(4)は農耕に使用する道具、(5)は脱穀や選別に使用する農具、(6)は様々な用途で使用される道具である。(5)では、籾摺に用いられた摺臼(木臼)・唐臼(土臼)や、脱穀用の扱箸や千歯扱の記載がないが、これらは使用されていなかったというのではなく、記載漏れと考えるべきであろう。
 牛馬耕に用いられた鋤・馬鍬なども含まれており、元禄(一六八八〜一七〇四)期以後各地に普及するようになった深耕用の三ツ鍬や鉄塔(熊手)、鎌としては、鋸状の稲刈鎌と草刈鎌の二種類が記されている。

表66 大飯郡上下村の百姓所持の農具

表66 大飯郡上下村の百姓所持の農具

 表66は、天保八年(一八三七)の大火で焼失した大飯郡上下村の百姓(A〜P)が所持していた農具の記録である。一軒ごとにどのような農具を所持していたかがわかる。なお、表中のAからGまでが一三石から二八石までの高持百姓であり、H以下はJが二石を所持する以外は無高である。
 この表によれば、牛馬と鋤や馬鍬を所持しているのは高持百姓に限られており、鍬には、鍬・大鍬・とんくわの三種、鎌は鎌・大鎌・田刈鎌の三種があった。千歯扱や千石外字・唐箕、唐臼(土臼)等も多数の百姓が所持しており、新しい農具がかなり普及していることが知られる。ただし、この中には備中鍬と総称される三ツ鍬・熊手などの記載はない。伊藤正作が「耕作早指南種稽歌」の最後に、丹後田辺で中耕に用いるとして熊手を図説していることも、三ツ鍬・熊手などがあまり普及していなかったことを示すものと思われる。しかし、これ以前の文化十四年(一八一七)の大飯郡高浜村常田家の農具には三ツ鍬二挺があり、若狭に備中鍬がまったくなかったわけではない。
写真32 敦賀近辺の馬鍬・鋤の図

写真32 敦賀近辺の馬鍬・鋤の図

 鍬については『農具便利論』の中で、「鍬ハ国々にて三里を隔ずして違ふものなり」と述べ、各地の特色ある鍬を図示しているが、この中に「若州小浜辺之鍬」「越前敦賀ニ用ル中鍬」が含まれている。鍬は刃と柄の角度が大きく、頭上から打ち下ろして土中深く耕す「打ち鍬」、刃と柄の角度が小さく、土中深く打ち込むのではなく、土を浚え移動させるのに便利な「引き鍬」、その中間で、粘質土に適した「打引き鍬」の三つに分類されるが、敦賀や小浜近辺で用いられていた鍬は「打引き鍬」に属する。小浜近辺で用いられていた鍬は柄の長さが五尺あり、他の鍬とはきわだって長く、「水田を耕すに、柄くゞミてハ勝手あし(悪)けれバ、柄付やう此ごとしとミへたり」と補記されており、水田に適した特色ある鍬であったようである。



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