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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    一 品種改良と肥料
      害獣退治
 江戸時代には猪や鹿・猿等も多く、これらが作物を食い荒らすことも多かった。とくに、若狭や南越の山地ではこれらの被害が多かったようである。
 今立郡池田郷の水海村では、延宝四年(一六七六)に、近年猪や鹿がたくさん来て、山畑の大豆・粟・小豆その他の雑穀を食い荒らし、百姓たちが生きていけないので、藩用の炭を焼きたい旨を願っている(鵜甘神社原神主家文書)。南条郡向新保村は、春秋には猪・鹿の通り道になっており、元文四年(一七三九)の春も鹿が多く、諸作物を食い荒らすので、威鉄砲一挺の借用を願っている(服部孫右衛門家文書)。また、寛政六年の冬季間に南条郡上広瀬組三三か村では、延べ九二三六人もの人足を猪鹿狩に費やし、猪三五四頭、鹿七六六頭を捕獲している(表65)。嘉永三年の河野・今泉両浦では、猿がおびただしく徘徊し、作物一切を食い荒らすというので、福井藩奉行宛てに鉄砲一挺の借用を願っている(浜野源三郎家文書)。

表65 寛政6年(1794)冬の南条郡上広瀬組の猪鹿捕獲数

表65 寛政6年(1794)冬の南条郡上広瀬組の猪鹿捕獲数

 若狭でも、享保六年には、遠敷郡の瓜生・上吉田・下吉田・脇袋・安賀里・関・新道・熊川・河内の九か村の庄屋が連名で、猪の通り道に苧縄の網を張って捕らえることを藩に願っている。この網の長さは一八〇間であり、高さ七尺、網目四寸四方であった(武田小太夫家文書)。また、三方郡日向浦は、享保十一年に他村に比べて猪・鹿を多く捕らえたということで、藩より酒代として一貫文をもらっている(渡辺六郎右衛門家文書)。嘉永三年には同郡佐野村でも、山沿いに猪が多く、夜番などをしても追い付かず、稲が痛められるので威鉄砲二挺の拝借を願っている(野崎宇左衛門家文書)。
 また、「農業蒙訓」には越前の山家で鳥獣の威しとして行われている珍しい方法を紹介している。それは、周囲が二寸位、長さが一尺五寸位の杭の先端を割って髪を挟み、髪の両端を燃やし、その臭気が雨露で失われぬように、縦横四寸位の薄板や木の皮を杭の先端に打ちつけて屋根にし、一間半位に一本ずつ立てるというものであった。
 



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