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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    一 品種改良と肥料
      様々な肥料
 『農業全書』の糞の項目では、田畑の肥料を「苗糞」「草糞」「火糞」「泥糞」「水糞」「上糞」等に分けて説明している。
 「苗糞」は緑豆を最上とし、小豆・胡麻・大豆・蚕豆などで、前年に田に厚く蒔き、よく茂ったものを土中に犁込み腐らせるものである。「草糞」は山野の柴草から作る厩肥や堆肥であり、「火糞」は様々なものを蒸し焼きにした灰、「泥糞」は池・川・溝等の底の肥沃な泥、「水糞」は腐ったものや汚物、濁水、沐浴の垢汁を肥桶に貯めておき、よく腐らしたものであり、「上糞」は胡麻や蕪菜の油粕、木綿の実の油粕、干鰯、鯨の身や骨の油粕、人糞などであった。この他、江戸時代の後期には石灰等も多く用いられ、焼土等も種々工夫されている。
 とにかく様々なものが肥料に用いられ、これらを獲得するためには相当な労力を要したようである。道に落ちている牛馬の糞を集めてくるとか、他出していても、自家に帰って大小便の用を足すといったことも実際にあったようである。
 村明細帳によると、貞享四年丹生郡横根村では、田の肥しとして「灰・柴草・麻葉・馬屋肥」、畑の肥しとして「油かす(粕)・げす(下肥)・草・麻葉・馬屋肥」で、灰・油粕・下肥などについては、自家で足りない分は府中(武生)で手に入れていた(青山五平家文書)。また、享保六年の今立郡池田郷の村々では「馬屋肥・柴草・灰・下肥」(上嶋孝治家文書)、寛延三年(一七五〇)の坂井郡上関村では「藁草」(上関区有文書)、宝暦十年の丹生郡城有村(久保東喜雄家文書)や同十一年の同郡別畑村(中村綱吉家文書 資3)、同郡片屋村(三好与次兵衛家文書)などでも灰・草・下肥・厩肥等が主として用いられていた。このように江戸中期以前における肥しは、都市近郊の村々を除き、自家で供給できる柴草・厩肥・草木灰・人糞尿が大部分であったようで、水稲単作の多い越前では、干鰯・油粕などの上質な肥料の広範な使用は、他の地域に比べて遅れていたのかもしれない。
 ところが、江戸時代も後期になると、丹生郡二階堂村など一三か村の百姓が、肥しとして桐粕一六八八貫匁余、鯡三三四一貫匁余を入手していたり(小泉教太郎家文書)、文政九年に坂井郡田島村の百姓が、凶作のため肥しを購入する時期になっても方策がなく、幕府代官所に銀三貫匁の拝借を願っている(池邑善兵衛家文書)など、金肥類のかなり広範な流通を知ることができる。諸藩の国産奨励等ともあいまって、灰・油粕・干鰯・身欠鯡等の流通も活発になり、これらを使用する者が増えていったものと思われる。
 若狭については、享保三年遠敷郡玉置村では田の肥しとして、請山で代米一八俵余を払って柴草を刈り(一反当たり八人手間)、干鰯や油粕を小浜で買い入れ(一反当たり一貫五七〇匁余、代銀三五匁)、西津小松原に肥溜を作って、代米二一俵で「しるごえ」(糞尿)を得ていた(「農作業取調ニ付書上覚」辻本又右衛門家文書 資9)。また、享和元年三方郡久々子村加茂家では、肥しとして鯡五個、一〇一貫七〇〇匁(粉にして七石七斗五升)を代銀二一八匁六分六厘で、油粕二八個(粉にして九石八斗)を代銀一六二匁四分で買い入れている(加茂徳左衛門家文書)。
 また、江戸時代後期には石灰の利用も多くなった。若狭一国内の石灰の生産販売は小浜の板屋伝兵衛に任されていたようであるが、文政十年には、大飯郡上下村の新介が野尻・父子両村の肥石灰に限って、板屋伝兵衛家の出店として商売することを願っている(荒木新輔家文書)。また、三方郡早瀬浦の字「久留見」と称する浦の共有地には石灰になる石があるので、浦人が漁の合間に「石掘・石割」などの稼ぎを行い、右衛門次郎の畑で肥石灰を焼き出したいと天保八年に願い出ている(早瀬区有文書)。
 ただし、この肥石灰については、その使用を懸念する者も多く、伊藤正作は「地性に益なき石灰」「御田地の土痩、米は取劣、藁迄用にたゝざる石灰」と述べている(「農業蒙訓」)。越前勝山藩も、勝山三町百姓に対して、田肥には草・糞を使用し、石灰を使用することを禁じた。しかしその後、三町が石灰使用を懇願したため、年貢米・囲米にするもの以外には当分石灰の使用を認めている(勝山市教育委員会保管文書)。
 また、自給できる焼土肥なども種々工夫されていったようであり、伊藤正作は肥後熊本の薮連立より教えられた独特の焼土肥を推奨している(本節第三項)。



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