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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    一 品種改良と肥料
      裏作と畑作
 元禄十年(一六九七)紀州領が置かれるに当たって見分のために越前を訪れた大畑才蔵は、その結果を「越前にて覚書」「内蔵頭様御領越前丹生郡内村々見分書」(大畑家文書)に記している(第一章第一節)。この中で才蔵は、越前の農村や農業について、紀州と比較しながら地方巧者らしく簡潔に述べている。才蔵の目に映った当時の丹生郡の姿を抜き出してみよう。
 越前は地性が優れている。田の裏作に大麦を作らず、畑も少ない。裏作の大麦はないが、土地がよいため年貢は石高の三割四、五分から四割は取れそうである。麻を多く作り、女たちが布を織ったり、桑の多いところでは蚕を飼うところもあるが、農作の他に稼ぎは少ない所である。作付はほとんどが稲で、畑は家の周囲や山のはずれに少々あるくらいである。田の内に煙草を少々作っているのは領内では大虫南村だけである。一畝ほど木綿を作っているところもあるが、寒国でことに八、九月には雨が多く、綿のできが悪いとのことである。家の周囲の畑では、多くは麻を作り、そのあとに菜・大根を作る。その他、土質の悪い畑には、第一に油桐、次には柿・梨・栗・桑・紙木・漆などを植え、その間には大豆・大角豆・荏胡麻を作っている。
 要約すれば以上であり、この地方は畑地が少なく、稲作以外の稼ぎも少ない水田単作地帯であったことを如実に物語っている。
 もちろん越前においても、所によって、また時代が降れば田の裏作に麦を作ったり、綿や菜種を作ることも行われた。元禄八年の今立郡水海村では麦を田畑に二町三反作っており(鵜甘神社原神主家文書)、宝暦八年(一七五八)以前の「妙法寺村御田地御改帳写」(宇野名左衛門家文書)によれば、南条郡妙法寺村では田四七町七反余の内二町ほどに、同十年の丹生郡下野田村でも田三四町八反余の内三町五反ほどに麦を作っていた(加藤五郎左衛門家文書)。また、文化五年の丹生郡余田村では「田方早稲作之分干田仕麦蒔候、翌春麦取入候跡綿作仕候」(増田新左衛門家文書)と記載されており、早稲田では麦、その後は綿の裏作が行われていた。明治三年(一八七〇)の同郡丹生郷村でも田一町ほどに麦作が行われていたことが知られる(大虫本町区有文書)。
 越前の農書である寛保二年(一七四二)の「農事覚書」(八坂神社文書)には裏作の麦について、「田麦毎年相応に作ルへし」と述べながらも、大作りはしないように説いている。また、木綿については、近年は田に植えるところが多いこと、秋の日和によっては稲より多くの収益も上がること、翌年の田の耕作に肥料も少なくていいと述べながらも、夏中の手入れや、秋の日和に不安があるということで畑に作りたいと記している。
写真29 「棉苗雌雄の見分様」

写真29 「棉苗雌雄の見分様」

 福井藩が菜種や木綿の奨励を本格的に行うようになるのは寛政(一七八九〜一八〇一)期以降である。寛政二年の菜種の専売は、各村に対して厳しく督促が行われており(馬場善十郎家文書)、菜種の増産に繋がったと思われる。また、文政二年(一八一九)には木綿作の要点を記した「農稼業事抜書帳中ノ巻」が、翌年には「農稼業事中ノ巻」中の挿絵「二葉雌雄之図」と説明文を抜粋した「棉苗雌雄見分ケ書」一枚が領内の各村に配られ、木綿作が奨励されている。嘉永六年頃には、各村で生産した外字(綛)糸・木綿織物・菜種などを藩が一手に引き取っていたようであり、各人ごとの生産高を書き上げた帳面等も残っている(小林弥平家文書、久保文苗家文書)。
 若狭では畑地も比較的多く、山地の畑などにはこの地方の特産物である「ころび」(油桐)が多く作られた。また、量的には少なく、年によっても異なったが、二毛作の大麦・小麦も作られていた。天保九年の三方郡久々子村加茂徳左衛門家では、米八八二束一把(約一八石)の他、春に菜種三斗一升、大麦三石六斗三升、小麦四斗二升を収穫し、夏・秋には大豆八斗二升、青豆五斗五升、黒豆六升、唐黍五斗、煙草二六斤、里芋五俵を収穫しており、同年の田植えでは、苗代跡とともに麦田の跡八反、小麦田の跡七畝の田植えが最後に行われている。量的には少ないが二毛作が行われていたことが知られる。



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