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 第二章 農村の変貌
   第三節 農業技術の発展と農書
    一 品種改良と肥料
      早稲・中稲・晩稲と畑作物
 稲や畑作物は、その土地の気候や労働の配分などを考慮して作付がなされた。丹生郡横根村の貞享四年(一六八七)の田畑の作付状況をみると、田一九町二反七畝七歩のうち早稲は約一〇パーセントにすぎず、中稲が三〇パーセント、晩稲が五〇パーセントであり、畑作は畑二町四反五畝一九歩のうち、大麦が約四四パーセント、芋・稗に桑・漆・楮を少々含めて約二五パーセント、小麦・大豆・小豆・大角豆合わせて約一三パーセント、麻・菜・大根が約一〇パーセント、油桐が約八パーセントであった(「横根村明細帳」青山五平家文書)。中稲・晩稲が多く作られ、早稲が少ないという傾向は、越前では一般的であったようである。表63は南条・今立両郡の小浜藩領七か村の作付の割合を示したものであるが、早稲が六七パーセントを占める横越村を別にすれば、やはり早稲が少ないという傾向がみられる。大野郡や今立郡における畑作物をみると、大麦・大豆を初めとする穀物や芋、菜・大根などの野菜が多く作付けされ、麻や木綿もわずかずつではあるが多くの村で作られており、一部の村では煙草も少し作られていた(「郡上藩領村明細帳」嶋田次郎右衛門家文書、「池田郷中村々明細帳」上嶋孝治家文書)。

表63 南条・今立郡の早稲・中稲・晩稲の作付

表63 南条・今立郡の早稲・中稲・晩稲の作付


表64 大飯郡子生村の早田・中田・晩田の作付

表64 大飯郡子生村の早田・中田・晩田の作付

 若狭でも、明和四年(一七六七)の『稚狹考』に「稲に早晩あり、早稲は僅なり、中稲漸多し、晩田は甚多し」と記されているように、中稲・晩稲が多く作付されていたようである。晩稲は、天保飢饉時の天候不順でとくに大きな被害を受けたため、伊藤正作も「晩稲は近世利あらず」(「農業蒙訓」)と述べて、早稲・遅早稲・中稲・遅中稲のみに限って作ることを勧めている。ただし、正作の啓発活動にもかかわらず、表64にみられるように、天保(一八三〇〜四四)期を過ぎても作付の割合には大きな変化はみられず、遠敷郡太良庄村では、文化十一年から嘉永二年(一八四九)の間で、早稲は三石(全体の〇・三パーセント)で変わらず、むしろ中稲が六五六石(七五・八パーセント)から五九四石(六八・八パーセント)に減り、晩稲が二〇七石(二三・九パーセント)から二六七石(三〇・八パーセント)に増えている。若狭における畑作をみると、雑穀・野菜類の他に山間地では油桐が多く作られており、この地の特産物になっていた。



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