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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
     四 地主の家訓
      変わる田中家家訓
 さて、これより六〇年後の当主は寛延二年(一七四九)に三八歳にて病気となり、一〇歳の息子、自分の死後息子が成人するまで当家に入り中持ちの家主(当主)となって一切を取り仕切る分家の当主、その立会人となる丹生郡天王村内藤氏、南条郡鋳物師村樫尾氏の四人宛てに「書置」を作成した。全一六条からなっているが、その性質上大部分は中持ちとなる分家の当主への報酬などの条件や諸注意からなっている。そして息子へ訓戒は最後に二か条にまとめられている。それによると、
 一、まず立派に成人するには「物書ならひ(習)候事」「算用達者ニ覚候事」「田畑山境能覚候事」の三点が大事で、成人後も「堅く」嗜むことが肝要である。「博奕」「大酒」「蝋・米等之札買」「好色ニおぼれ候事」の四点は堅く慎むべきことである。公儀の御法度を堅く相守り御年貢上納を滞らないように心掛け、相応の田畑山を支配すべきである。仏法は「蓮如上人之御文」を繰り返し読めば合点が参るはず。後生の道理を説く名ある坊主に聞くのもよい。ただし、人から「仏法者」と言われるようになるのはもっての外悪しきことである。「神(流行神)信仰物、いまわしき事」は千万悪しきことである。「堪忍」が足らないゆえ身を破滅させることが多い。「堪忍」なり難きことが起こったら、絶対「面」に表さず事をのばし、長い時間をかけて我が身を損じないで相手に打ち勝つ対策をたてよ。公儀御役人へ人よりも多く出入りして気に入られようとするのは、悪しきことである。大庄屋役などは「身上すぐ(優)れて能人がら(柄)」(財産と人望)があればひとりでに来るものである。その道の「上手剛成者」を見立て懇意となり、相談することも大事である。子沢山は本家の潰れ、親にとっては「心身之難儀之極り」となる。まして外に「しやく子」などを持つことはもっての外である。高と金は人より優れていてもよいが、芸能で人より優れていることは近頃では悪しきことである。
 一、縁談は絶対に「身上軽キ者」を相手にするな。これは悪しきことである。幾年も待つうちによい相手が見つかるものである。
 なお後書きは、「聖賢・権者」の立派な教えがあるけれども、今時の「土民体」には通用しないのでこうして書いた。もし学問をするなら広く浅くすることが肝要で、「軍談物」の中にも多くの役立つことが書いてある。世間からみて不審な点もあるだろうが我が家は「土民」ながら、「始知レざる古キ家」であり、なんとしてでも「末々迄家相続もいたし候様」にと願って、また一家他人の得失を考え、そなたの為になれかしと病中に思い浮かぶことを書き付けたのである。と結んでいる。
 貞享期の書置と比べてみると、まず村の指導者としての役割を説く部分や具体的な農業経営に関する部分がまったく欠落している。それは当家の大庄屋として家柄が確定し村では別格となったこと、農業経営では小作経営が中心になったからと思われる。かわりに縁談についてとくに一条をたてたり、土民ながら始まりも知れざる旧家と強調するなど、家柄の誇示が著しい。また、学問をするなら広く浅くとか、軍談物の中にも学ぶべきものがあるなど地主の教養の一面をみることもできる。



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