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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
     四 地主の家訓
      女性の書いた家訓
写真28 智鏡尼上座遺訓(部分)

写真28 智鏡尼上座遺訓(部分)

 大野郡中野村の「はなくら」家は持高五五〇石余、名字帯刀、郷士待遇をうけていた家である。当家二五代の当主の妻女「智鏡尼」は二六歳で老母・幼子三人、膨大な借財を抱えて未亡人となった。彼女はそれ以後「昼夜忘ル間茂無之二十年来難儀苦行」して、借財を返済し、老母を見送り、子供を育て、花倉家を守りきって長男に家督を譲ることができた。その深い安堵感と、中興の祖ともいうべき自負心をもとに寛政四年(一七九二)正月に書き記したのが全二八条からなる「智鏡尼上座遺訓」である。
 まず領主側に対して忠誠心や恭順の意を表することの大切さを説く。それは領主側との良好な関係が当家の地位の維持に最も重要であったからである。
 一、「御公儀様御法度」は言うまでもなく、「当家之作法」を順守すること。
 一、殿様より裃を拝領し、帯刀・高足「一統直御支配」までも仰せつけられた「御厚恩」を子々孫々末々にいたるまで忘れず御用を大切に勤めること。
 一、御家中の「重キ御役人」から「軽キ衆中」にまで無礼なることがないようにせよ。これは召し使う男女にも徹底させよ。
 農業経営に関するものは三項目で簡単に記されている。これは地主経営中心で実際の農作業からは離れていたからであろう。
 一、「百姓之重宝ハ御田地」、田畑山林は毎月一両度は見回り地境を「慥ニ覚へ居」り「寸地」も紛失しないようにせよ。尤も地境で隣人と口論などないように平生から心掛けよ。
 一、「万種物」は年中心掛けておき、時候に遅れず「種ナ下シ」できるようにせよ。
 一、 毎年「用水之時掛り之御役人」とよく交渉して、手抜かりのないようにせよ。最も力が入れられているのは同家の人として守らなければならない日常生活の規範である。これによって地主の日常生活の一面をうかがうことができる。それはまず先祖崇拝と家の宗旨を守ることであった。
 一、御先祖の御命日には逮夜より家内中が精進し、香華を捧げ、有合せの品を清浄にして、茶湯霊供等を献上せよ。
 一、御先祖の御位牌・墓所はいつも掃除せよ。
 一、菩提寺は禅宗洞雲寺である。当家出生の者はいうまでもなく、他家よりの「入り人」であっても「他寺・他宗」へ「心を傾ケ」ることは堅く禁止する。また質素な生活をすべきことを強調し、
 一、衣類は男女ともに平生は「木綿洗濯物」を着用し、仏事・祝事にも絹(粗末な平織りの絹)・紬より上分のものを決して着用しないこと。
 一、元服・婚礼の時も一汁三菜、吸物一通り、採り肴一種二種に限る。
 一、元服・婚礼の節「謡」はいいが、「浄瑠璃・三味線」は堅く無用である。
 一、「伊勢参宮」初め何国へ出かけようと、「木賃泊り」とし、常には歩行して馬・駕篭など、道中奢りがましきことは決してしてはならない。土産物はごく簡単にし、無駄な失費のないようにせよ。
 一、 平生三度の食事は今までのしきたりを必ず守ること。「百姓ハ雑穀を以て渡世」せよとの御条目もあることゆえ必ず守ること。
 そのほか華美なる普請をしないこと、華美なる諸道具・異風な物を持たない、人請け・金銀貸借、その取次ぎなどは先祖から伝えられた禁止事項であるので堅く相守ること、平生の茶話に他人を批評するな、祝いの席で大酒を飲むな、権威をもって他人を軽んずるな、会合には必ず定刻までに出席し、遅れて人に迷惑をかけるな、殺生はもちろん、飼鳥など絶対するな、博奕をするななど一般的なことが列挙されている。また毎夜「火盗用心」を厳重にし、「家来共」の夜回りを怠らせるなとも書いてある。
 後書きには以上の箇条を毎月三回家内の者に読み聞かせて守らせよ。これを用いて「家門繁昌成ル刻ハ御先祖方始我等彼の土ニおひて歓喜之眉を開ん」とあり、最後に「右者何茂存生之内ハ不及申、当家あらんかきりハ相用可申様次々ニ申伝、急度相鎮(慎)可申候」と結んでいる。筆跡・文章ともに優れた堂々たるもので、この時代にこのような女性がいたことは驚きである。



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