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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    三 大野盆地の地主制
      小作経営中心へ
 五畿屋に現存する土地売券類をみると、寛永十一年から宝永三年まで一七通のうち、延宝四年(一六七六)までの一三通はすべて永代売である(計田二一石二斗、畑二〇三八歩)。しかし、これらはすべて年貢は買主負担、惣まどい金・諸役・掛り物は売主負担となっている。貞享二年(一六八五)木本領家村は杉本家に対し、買い取った一九石分については売主が諸役を勤める定めであるので、足役・村盛・郷盛などは課さない旨の証文を提出している。
 正徳(一七一一〜一六)頃から当家の経営はまた小作に中心に移ったらしく、正徳五年初めて小作米未進による田畑の質入証文が現れる。それ以降約一五〇通を数えるが、その大部分は小作米未進による借米銀の証文で、質入証文・年季売本物返証文・年賦証文などからなっている。質物は田畑山林、土地のない者は本人・倅・娘などの奉公などとなっている。貧しい小農民は生活の維持のために小作となり、かえってわずかに所持している土地さえ手放さなければならないという悪循環に陥っている様がうかがえる。
 当家が手作をどれだけ残し小作地をどれだけ経営したかをはっきり知る史料はない。幕末から明治初期にかけて、当家では手作経営のため、庭番頭一人・差配二人・雇夫七人を置いていた。ところが、明治六年(一八七三)の一揆で焼打ちにあい、手作は困難となったので、急遽七人の雇夫を解雇し、手作地の田一三九〇刈(元禄期の一五・二パーセント、約二町三反ほど)をこの七人に小作させることにした。小作させるに当たっては当人の家族数、資本力を考慮した。畑一町二畝一〇歩については、桑の木は当家が養蚕のため直接支配し、その他は七人の希望によって配分することにした。また他の七か所の畑は二か所を七人に配分、五か所は作付収穫の手間二〇〇人とみて二人に請け負わせることとした。ただ外字米については記すところがない。
 このようなやり方は慣行があるので、元禄・宝永期の総手作経営から正徳以後の小作経営中心への転換も、このようにして行われたのであろう。人件費・金肥などの諸経費の高騰、米価の下落は、貢租の重圧とあいまって手作経営を行き詰まらせる要因であったことは間違いない。一方小作側もある程度資本力を持つまでに成長していなければ成立しないことも、この例で明らかである。
 当村では後期の史料によれば、田地の売買・交換あるいは外字契約には、その田地を「一、米弐俵壱斗納 但稲四拾五束刈_屋敷腰」のように外字米と束刈で標記することが多かった。またこれは村役人が証明し確認した。これによると上下はあるが、標準は二〇束刈=外字米一俵、五束刈=一斗の計算になっている。標準六〇束刈=一反とすれば、反当外字米は三俵となる。畑の場合は面積が基準となり、まず一歩当たり外字米平均一合前後が決められてその畑の外字米が決まっている。当家の外字米収入の天明五年(一七八五)から文政八年までの四一年間の平均は一六〇俵余である。なお当家の木本領家村における持高に対する貢租は表61のとおりである。なお宝永期のものは免状をもとに推定した。

表61 五畿屋の負担する木本領家村分の貢租

表61 五畿屋の負担する木本領家村分の貢租




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