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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    三 大野盆地の地主制
      小作人への饗応
 地主小作関係には外字米納入をめぐる対立緊張した関係がある一面、地親・地名子という擬制的親子関係を初めとする様々な面があった。そのひとつに正月に行われた地主の小作人への「振舞」(饗応)がある。
 野尻家では古くから、正月二日「謡初之祝儀」と称して「村人・出入之者」を招き、酒を振舞い、「面々得手之歌抔謡ひ遊」ばせる年中行事があった。これは中世土豪が正月に百姓を饗応した名残と思われるが、当家では寛政頃これを出分高小作人の外字米「皆済酒振舞」に切り替えている。これは出分高がおもに土布子・新在家両村で越石となっていたからでもあった。小作人に対する皆済酒振舞いは、寛政から天保(一八三〇〜四四)頃にかけて始まったらしく、小地主では囲炉裏端で外字米の算用をしながら、煮染めなどを肴に酒を振舞う程度であったが、大地主は正月に数十人の小作人を集めて行った。
 その振舞いは「飯」「中酒」「納鉢」からなっており、ときには「加エ酒」が追加される時もあった。接待には奉公人を総動員し、袴をつけた亭主が一度だけ酌をしたり、内儀が盛装で納鉢を盛ったりして気を遣った。料理の残りは包藁にして持ち帰らせた。このような気遣いは中世以来の慣行もあるが、根本的には小作する者がなければ経営が成り立たないというところにあった。



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