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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    三 大野盆地の地主制
      手作から小作経営中心へ
 野尻家の近世前期の地主経営をうかがうことができる史料に、卯年正月二十六日付「未進年貢猶予願」がある。これによれば当家はこのとき持高六〇〇石余、牛馬一〇匹、譜代下人二二人、一年季下人六人、譜代下女一五人を抱えており、年貢未進米は二〇〇俵余りであった。これは前年が不作で、「手作分」を取り落としたことと、「小作未進」が一四二俵余りあったからであるとしている。小作未進のうち八六俵は今後の差引勘定などでなんとか処理が可能だとしても、残り五六俵はまったく取立て不可能で、その上小作人たちは請け田を「すきと相返」し(一斉に揚げ田)てきて困っている、ぜひ「小作人」を召し出し詮議をお願いしたい、「牛馬下人家内中」を売り立てたならば少しは上納できるかとも思われるが、それも今すぐにはかなわず、今までどおりこのまま「屋敷之内」に住むこと(未進年貢の免除または猶予)をお許し願いたいとある。
 年貢未進米二〇〇俵余のうち小作米が一四二俵を占めると強調しているように小作部門も大きく、しかも揚げ田で対抗するなど小作人の成長も著しい。しかし、多くの譜代下人・下女を召し抱え、一〇匹の牛馬を持つなど手作部門も大きかったことがわかる。なお、この手作には当家小作人も雇人として使役されているはずである。誇張された表現ではあろうが、牛馬下人家内中を売り立ててとはなんともすさまじい。
表58 延享3年(1746)の野尻家の小作米収入

表58 延享3年(1746)の野尻家の小作米収入

 中期以降当家では手作経営を縮小し、小作経営を中心とするようになった。その根本的原因は「男女奉公人払底」や雇人の人件費などの高騰にあった。延享四年(一七四七)の「大福小作米卸付覚宝帳」によれば、小作地は横枕・新在家・土布子・東大月の四か村にあり、その内訳は表58のようになっていた。小作米収入は四〇〇俵余である。このうち出分高については、石盛一反一石、年貢は「村免一つ下り」の二割二分の定免であったので、外字米もそれに準じて「豊凶共定免取立」てとしている。ところが、それを利用して又貸しして中間得分を稼ぐ小作人が現れたり、寛政(一七八九〜一八〇一)頃から悪作を理由に「一作引」(その年だけの減免)要求が強まり、その対策に苦慮しなければならなくなっている(「諸用留」)。
 この頃の手作経営を知る具体的な史料はないが、「諸用留」の中の「当家之大田植」の記事によれば、嘉永四年(一八五一)には「雇人」一四人と「手前家来」五人、計一九人の動員、安政元年(一八五四)には総人数一四人うち「雇人」九人、「田六反斗り」とある。奉公人は五人に激減しているなど、前期の場合と極端に経営方式が違っていることが注目される。



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