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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    三 大野盆地の地主制
      野尻源右衛門家
 大野盆地は中世土豪の系譜を持つと伝える地主が目立つところである。いずれの家も大きな高を持ち、そしてその持高には「諸役御赦免」高があり、さらに低税率の出分高(太閤検地以後打ち出された新田高)も諸役免除とされていた。
 野尻家は天正十年(一五八二)加賀から横枕村に移り土着して百姓となった家と伝えられている。詳細は不明であるが、天正三年、金森長近が越前進入に当たって、大野郡の寺庵や在地土豪などに協力を呼びかけた書状の宛名にみえる「野尻与一」なる人物は、あるいは当家祖先と関係があるかもしれない(専福寺文書 資7)。

表57 横枕村の特高からみた本百姓構成

表57 横枕村の特高からみた本百姓構成

 横枕村の村高は「正保郷帳」では六三一石一斗四升、「元禄郷帳」では六三一石一斗四升と出分高一一四石五升四合、「天保郷帳」では七八八石一斗五升九合一勺となっている。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)以降は大野藩領となった。寛文(一六六一〜七三)期・宝永(一七〇四〜一一)期などの本百姓構成は、大高持の野尻家とその分家と小農民の百姓という構成で、村高に比して本百姓数が少ない。これは中世土豪出身の当家が分家を分出しながら百姓身分として確立した姿を示すものである(表57)。なお宝暦十一年(一七六一)には高持一一軒・水役二六軒、牛馬一八匹、文政六年(一八二三)には高持一八軒・水役一六軒となっている。
 当家の近世初期の持高は正保元年(一六四四)「松平直良重臣諸役免許状」によれば五三三石で、うち三二七石九斗余が「諸役御赦免」となっていた。土井大野藩時代にも、三二四石七斗三升三合が「夫米・諸役御免高」となっている。当家はこの持高の中から四分家(合計本高三四二石、出分高四二石)を分出したのであった。



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