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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    二 坂井平野の地主制
      久保家の経営
 久保家のあった鷲塚村は、坂井平野中央に位置し、「正保郷帳」には田一三七八石余、畑二七石余と記載されており、畑の少ない水田中心の村である。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領になり、元禄十年から宝永二年(一七〇五)まで葛野藩領、その後幕府領に戻り、文政三年(一八二〇)福井藩領になった。
 久保家には江戸時代初期の記録はなく、初期の様子は不明であるが、寛政元年(一七八九)には小作人への外字高だけでも鷲塚村内で九一石を所持しており、文政八年の「昔より損亡永代帳」には、享保三年以降の無返済の貸付金が金七六七両三歩と銀五四貫匁余であることが記されている。また、寛保二年(一七四二)以降の年貢割付目録などの村方文書が十数点ではあるが残されている。これらから、当家は江戸時代中期には村役人を勤め、一〇〇石前後の石高を村内で所持し、居村はもとより隣村の百姓にも金を貸す有力な地主であったことがわかる。

表53 久保家の鷲家村内での所持高

表53 久保家の鷲家村内での所持高


表54 久保家の越石所持高

表54 久保家の越石所持高

 久保家は、居村内の所持高の一部を五、六人の下男・下女とともに手作りし、残りを多くの小作人に外字していた。幕末における手作高と外字高の割合は表53のとおりである。表に示した三か年だけでも手作高・外字高の割合は大きく変化している。弘化三年(一八四六)における小作人は三八人で、外字高を五石以上作っている者が三人、一石以上が一八人、一石未満が一七人であった。
 また、久保家は天保期以降になると居村以外の高(越石)をも所持するようになった。嘉永六年(一八五三)から明治二年(一八六九)の当家の越石は表54のとおりであり、嘉永六年から文久三年(一八六三)までに一・九倍に増加している。同年の越石の範囲は三四か村にわたり、地域的には坂井郡がほとんどであったが、足羽郡の福井松本地方(三石)や吉田郡上合月村(一二石)にもあった。一村での所持高は、多くが一〇石から三〇石の間であり、坂井郡の上新庄(九七石)・正蓮花(六三石)・田島(六〇石)・下兵庫(五〇石)など五〇石を超える村もみられた。
 これらの越石の一部は質流れとなって永久に久保家の高となったが、大部分は五ないし一〇年の年季を限って久保家に預けられたものであり、年々変化している。
表55 安政5年(1858)の久保家の田からの収益と支出

表55 安政5年(1858)の久保家の田からの収益と支出


表56 安政5年(1858)の久保家の畑からの収穫高

表56 安政5年(1858)の久保家の畑からの収穫高

 表55は安政五年(一八五八)の大福帳から作成した、当家の田の所持高からの収益と支出である。手作の場合は、所持高に対する収益が約六七パーセントであり、外字高については高の約六六パーセント、越石については高の約一八パーセントであり、貸付金の一年間の利息に相当するような率であった。
 支出の内、年貢・高掛銀・村盛米は居村内の手作高・外字高にかかるものであり、肥料代・雇人手間代・下男下女の給米は手作高にかかる経費と考えてよかろう。これを差し引くと、手作高からの収益は二石(高の約七パーセント)、外字高からの収益は四三・六石(高の約三五パーセント)となる。したがって、安政五年の久保家の田からの純益は、手作地から米二石、外字地から米四三・六石、越石から米一一五・二石、合わせて一六〇・八石となる。田の他に表56のような畑作物の収益もあった。これらの多くは久保家で消費されたと考えられるが、一部は換金されることもあったと思われる。
 この他、久保家の収入源としては、貸付金銀の利息と商いからの収益があげられる。天保期以前においては、袷・単物などの衣類、蚊帳、鍬・稲扱きなどの農具を質に取って金銀の貸付けを行っていた。文政八年の大福帳によると、一か月一・五パーセントほどの利息で、福井・丸岡城下を初め二一か町村にわたって一年間に銀三〇貫匁余と二七〇両の貸付けを行っている。貸付け期間は、数か月から数年に及ぶものなど様々だが、仮に一年間貸し付けたとすれば、銀五貫四〇〇匁と四八両二歩余の利息を得る事になる。天保期以後は、衣類・農具等に代わって高を質に取るようになり、返済不能の借銀は久保家の越石を増加させることになった。
 久保家は大名への貸付けも行っている。文政八年までに、丸岡藩に対しては五〇四一両を貸し出しており、同年には五三三両と銀一貫三〇〇匁が返却されている。また、同年までに、福井藩には二三八両三歩と銀六五貫匁、幕府代官所に銀六五五匁、幕府領福井藩預役所へ一〇七七両三歩と銀一八三匁余が貸し出されている。
 これらの貸付金は年間一割前後の利息で、一〇年賦、二〇年賦という長期の貸付けであったが、年賦返済のうち何か年分が返済されなかったり、永納といって貸付金を帳消しにし、代わりに扶持米を与えられることもあった。
 こうした大名への貸付金はその後も増加しており、幕末期の丸岡藩へは一万両にのぼり、鯖江藩・勝山藩へも巨額の貸付けを行っている。当家はこうした貸付金を背景に、藩の財政にもかかわるようになり、福井藩の御内用達役、産物元締役、札所元締役などを務めたり、丸岡藩領の有力地主や大坂の豪商などとともに天保七、八年の丸岡藩の財政改革に一役かっている。
 また、当家は商業活動も行っている。文政八年の大福帳の「貸かや(蚊帳)致候節不埒之者留」によると、天明七年(一七八七)頃から近村の百姓に蚊帳を貸し使用料を取っていたことがわかるが、貸付金の質に取った古手衣類や農具などの小規模な貸付売買から、次第に大規模な商取引に発展していったものと考えられる。文政八年には、津出米や福井藩明里米蔵の米手形二五四二俵、木綿二九六四反、生糸一一四貫三六〇匁の売買によって銀六貫四五二匁の利益を得ている。そして、天保期以後は、三国湊の廻船業にも進出し、弘化元年には六艘、慶応二年(一八六六)には五艘に出資している。
 坂井郡内の地主の中には、当家のように金融・商業に次第に進出し、諸藩とも深くかかわり、天保期以後の小農民を中心とした村落の解体の中で、次第に越石を集積していった地主もあった。一本田村の山田家なども明治・大正の頃には数千石の高を所持する県内有数の地主であり、久保家の娘を母とし、自由民権運動で活躍した波寄村の杉田定一なども有力な地主であった。



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